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僕の父親、逢崎棗(あいざき なつめ)が家を出ていったのは、僕が小学五年生の時だった。
珍しく最近は喧嘩が多いなと思っていた。
ただ、どれだけ喧嘩しても最終的には愛し合い交わって仲直りしていた。お母さんがそれで満足することを、お父さんはちゃんと知っていたんだと思う。
だから、あの二人はいつまでもあの二人のまま続いていくんだと思っていた。
けれど、あの男はあっさりとお母さんを捨てた。
ある日突然、荷物をまとめて家を出て行った。
そして、愛する夫に逃げられた惨めな妻は瞬く間に壊れてしまった。
お父さんがいなくなって暫くは、ストーカーまがいのことも続けていたけれど、結局お父さんが再びお母さんを愛することはなかった。
何かに気付いてしまったお母さんは、もうどしようもなくて。
僕には何もできなかった。
ただ、いつの日か聞いたお父さんの話を思い出し、お母さんも捨てられたんだな、と思っていた。
歩きながら、ずっと忘れたかった昔の記憶を思い返す。
当時の感情も蘇り、ただでさえ重い身体がさらに重くなった。
まるで蛇口を開けっぱなしにした水道みたいに、流れ出てくる。
栓は壊れてしまったのか止めることができない。
苦い感情を抱いたまま玄関の前まで着く。
こんな状態のまま中に入っていいかわからなかった。
きっと中では郁さんや、菫さんがいつものように待っている。郁さん曰く、菫さんは何やら上機嫌らしい。
二人ともいつもみたいに楽しく談笑していて、僕が帰ってきたのに気がつけば「おかえり」と言ってくれるだろう。
想像したと同時に、幼い頃の嫌な思い出が脳裏をよぎった。お母さんが「おかえり」と言ってくれたことは一度もなかった。お母さんはいつも何も言わず、邪魔者が帰ってきたと表情を曇らせるだけだった。
深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。
大丈夫だと言い聞かせる。
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