第1章

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尾上慎の生家は東京の青山に代々続く商家で、大層羽振りが良かった。 尾上家はとにかく後継ぎが産まれず、直子は一人だけという状態が代々続いていた。だからか、本妻の他に妾腹の子も何人もいたり、妻は何人も離縁させられたなど、あまり良い話は聞いていない。 父も先代の例に漏れず二人の妻を離縁した。慎の母は三人目の妻で、元は女中だった。慎誕生時、父は50をとうに過ぎていた。外で囲った女もダメだったのに、やっとのことで子を持てた。大切に、べろべろに甘やかして可愛がった。 慎が子供を生きていた頃は、時代柄、父親とは厳格でとにかく怖く子供との距離も取るのが普通だというのに、友人の父親の誰もここまで子供に甘い家長はいなかったろう。その様子は子というより孫を愛でる祖父のようだった。 慎は並外れて賢く育った。家業を継ぎたくないと言うと、そうか、と言って、商いを他人に明け渡した。使用人に給金を出せなくなった尾上家は、彼ら全てに暇を取らせ、人が減ってすっかり広くなった家で三人ぼっちで暮らした。 「お前は頭が良いから偉い先生になれ」と奉公ではなく大学までやってくれた。父は息子を大学へやってすぐに結核で死んだ。父の記憶は切なくて温かい。息子の出世だけを楽しみにしていた人にその姿を見せてやれなかった。慎へ、父という存在は何があっても子を守り愛する存在であるという信念を植え付けたのは、彼の父親だった。 対する母は、女中だった自分を学がないと恥じていたが、父は愚かな女を妻にはしない。嫁に迎えただけのことはある、芯がしっかり通った女性だった。何より母の料理は美味かった。 後年、両親は結核に倒れ、慎も罹患して生死の境をさまようことになるのだが、呑気に食卓を囲んで漬け物を囓っていた頃は誰も未来を予想できなかった。 長じた慎は自宅から近い帝大に進学し、両親を大層喜ばせた。当時は生涯の友と思い、後に因縁の人物と出会う。 名を高遠次郎といった。物静かな印象の男で、良い所のボンボンという話だった。
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