第1章

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「はい。よろしくお願いします。」  KENJIが衣装を着替えて楽屋を出ると、二人は次の仕事に向けて歩き始めた。      2 「あんちゃん、もうええわ。」 「早よリンダちゃん出してぇや。」 「前座なんかいらんわい。司会者も早よ引っ込め。」  いつものように観客にヤジを飛ばされながらも、芸人、一波近似(ひとなみきんじ)はくじけることなく、持ちネタであるモノマネ芸を披露していた。自分ではかなりレベルの高い芸を見せているつもりなのだが、近似のモノマネ芸を目当てに来ている観客など皆無だから、どんなに罵声を浴びせられようと我慢する他ない。とにかく店から与えられた時間だけでも芸を披露し続けなければギャラがもらえないので、針の蓆に座らされている近似はいつも必死だ。 「次は演歌界の大御所、北浜たかしのモノマネで「酒場の花嫁」聴いてください。」  額から止めどなく汗が流れ出てくる。次の出し物を、鼻息を荒くして待ちわびている観客の熱気で、劇場内は異常な暑さになっている。緊張と熱気で目が回りそうだ。照明が落ち、近似にスポットがあたった。  演歌特有の伴奏が始まると近似はそっと目を閉じ、観客に悟られないように大きく深呼吸して芸に集中した。そして歌い出してみて、今日の調子はまずまずだと自己採点する。しかし序盤にも関わらず、顔面に軽い衝撃を受けた。驚いて辺りを見回すと、どこから持ち出したのか、トイレットペーパーのロールが、白い長い線を描きながら近似の足下に転がっていた。前列に座る中年男が、近似を指差しながら手を叩いて笑っている。 「引っ込め。お前の芸は見飽きたわ。」 「帰れ。」「帰れ。」・・・・・。  観客が一つになって近似のプライドをずたずたに引き裂き始めた。今回に限ったことではないが、いつになってもこの状況に慣れることができない。噂によると、同じ前座でも手品の時はこのようなヤジは一切ないという。それだけ芸人の存在は軽く見られているのだ。  思わず舞台の裾に目をやった。そこには、事の成り行きを心配そうに見つめている安物仕立てのモーニングを着た、チビ・ハゲ・デブのひょうきん顔の司会者の横で、店のマネージャーが顔をのぞかせ 「近似、こっちは準備できたからもう引っ込んでもええで。」
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