第1章

5/101
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/101ページ
「ただいま」村井孝文がいつものように日付が変わる直前に帰宅した。 「おかえり」と一日の労をねぎらう気に清美はなれなかった。  晩ご飯は食卓の上にラップをかけて用意してある。あとはレンジで温めるなり、晩酌するなり、適当にやるだろう。清美は3歳になる息子、朋紀をようやく寝かしつけ、自分も隣で横になりながらウトウトし始めた時だった。  最近孝文とは会話らしい会話をしていない。会話するのが煩わしかった。  しばらくするとキッチンのほうからガサゴソと物音がした。どうやら彼は部屋着に着替え終えて、今から遅い食事を摂るようだ。  孝文は、清美と出会った頃に比べ随分恰幅がよくなった。いや、よくなりすぎている。 仕事の都合上、深夜に摂る食事のせいもあるだろう。それ以上にストレスから来る食欲の異常な増進が彼を太らせている。そのストレスとは、様々な事が考えられるが、ひとえに仕事における挫折が、彼を蝕んでしまっているようだ。  清美が高校を卒業して、中堅のコンビニエンスストア「ミーツタイム(Meets Time)」に入社した時、孝文は彼女の配属された営業所の若手所長として誰からも注目される出世頭だった。そして彼もまたその営業所に配属されてきたばかりだった。  清美と出会う前の彼の活躍を聞くと、誰もが憧れ、それが更に広まり、いつの間にか「伝説の男」として噂される程の人物になっていた。  しかし、彼の快進撃も長くは続かず、新しい転勤先つまり清美の配属先営業所での大苦戦以降、彼の人生は大きく変わってしまった。まさにその転機に、清美は孝文と出会ってしまったのだ。しかも10歳という年の差を乗り越えて結婚までしてしまった。清美はまだ二十歳を迎えたばかりだった。  孝文との結婚は清美にとって大きな誤算だった。彼についていけば将来は約束されたも同然だ、と思っていた。しかし、それは若気の至りだった。もちろん、孝文本人もそう思っているだろう。  二人が結婚した直後、配属営業所の売上げ低迷を理由に、孝文は都心から遠く離れた地方への転勤を言い渡された。しかも所長としてではなく、いち店舗アドバイザーとしてだ。いわゆる降格人事だった。  降格は当時としては世間的に珍しかったが、古き日本の雇用制度、つまり終身雇用や年功序列を廃止する事こそが美徳とされる考え方が、急速に広まりつつある時代でもあった。いわゆる日本企業の欧米化だ。
/101ページ

最初のコメントを投稿しよう!