第1章

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    思ひ出連鎖                         宝生 時雨       木内家  午前7時 朝にもかかわらず外では遠慮なしに強い日差しが町中を照りつけている。庭に植わっている木々には自分たちの縄張りを主張し合う様に蝉達がけたたましく鳴き続けている。最近はこの蝉の声のおかげで目覚まし時計がいらないくらいだ。  比奈子はいつもの様に夫の出勤前にどれを履いていくかわからない革靴達を磨いていた。夫の持つ靴の数は相当なもので、靴底はどれもほとんど減っていない。夫が言うには「男は靴で人間を語る」らしい。女の比奈子にとっていまだに意味がよく分からないのだが。とにかく靴は常にきれいでなければ落ち着かないらしいのだ。久しぶりに履いた靴に埃がかぶっているだけで一日不機嫌になる。だから比奈子は毎日全部の靴を磨かなければならない。   「よし、これでおしまいっと。」  最後の一足を磨き終え、玄関の靴箱に革靴達の正面が見える様にしまう作業に取りかかる。気がつけば全身から汗が噴き出ている。夫と娘を送り出してからシャワーを浴びなければならないなと比奈子は思った。今日も暑くなりそうだ。ひょっとしたら夕方からスコールのような夕立があるかもしれない。近所の奥様連中とのお茶会は早い目に切り上げた方が良さそうだ。 「行ってきます。」  都内の私立小学校に通う娘の薫が小学校で使う教材と放課後に通う塾の教材の入った革製の黒い手提げ鞄を持って玄関に現れた。薫は小学5年生という少し背伸びをしたい年頃なのか、はたまた身長が伸びてきて窮屈になったのかランドセルを背負うことに最近抵抗をおぼえ、先月夫が買い与えたのだ。 「忘れ物はないの。」  比奈子の問いかけに薫は眼鏡の奥から瞳だけを彼女に向け、無言でうなずき、靴を履きながら 「毎日同じことばかり聞かないでよ。頭きちゃう。」  ぽつりと残してさっさと出かけていった。ひと呼吸遅れて既に外に出て行って見えなくなった薫の背中に向けて「いってらっしゃい、気をつけてね」と比奈子はいつもより声を上げた。  彼女の目はいつからあんなにも大人びたというか冷めたというか輝きのない瞳になってしまったのだろう。数年前まではまんまるなつぶらな目を輝かせながら、学校での出来事を寝る時間を惜しんでまで毎日比奈子に話して聞かせてくれたものだ。
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