第1章

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 おかげで比奈子と薫の会話は極端に減り、内容も単調なものにならざるを得なかった。その引き換えに薫の成績は小学校でも塾でもトップクラスに常に名を連ね、全国の模擬試験でも上位二桁以内にランクインすることが当たり前となった。 「おい、新聞はまだか。」  食卓から夫の進が尋ねてきた。 「今お持ちします。」  比奈子は食卓に向かって声を上げた。  薫の教育方針はこの夫によるものだ。学歴社会神話を信じて疑わないからこそ「薫には最上級エリートになってもらいたい」と比奈子が学歴社会に対する不信感を訴えるたびに進はこのことを口にした。  進にとって比奈子は二人目の妻だ。年は23歳も離れている。現在進は大手製薬会社「太陽製薬工業」の専務取締役だ。  13年前、当時の常務取締役の不正政治献金という不祥事が発覚し、経営陣は総退職に追い込まれた。そこで会社の若返りとクリーンなイメージを世間に植え付けるため、若いエリート社員が選ばれた。新しく任命された取締役の平均年齢はちょうど今の進と同じ58歳になった。  他の企業からすると大した若返りではないかもしれないが、これまでの取締役の平均年齢が68歳だったことを考えると相当な若返りである。  その後しばらくして進も取締役に任命された。特例のスピード昇進で、当時42歳だった。新しく任命された若い取締役の中でも進の昇進は異例のことだった。  比奈子と出会った当時、進は45歳を迎えており、取締役営業本部長として同僚達からも一目置かれる存在だった。この6年後、進は専務取締役になる。  比奈子は大学を卒業してゼミの教授の口添えでこの「太陽製薬工業」に入社した。製薬の知識など皆無に等しく、毎日書類のコピーやお茶汲み、資料の整理といった雑用に明け暮れていた。おそらく先輩社員や同僚の目には、比奈子は所詮出来の悪いコネ入社の女子社員の中の一人としか映らなかっただろう。  そんな彼女に対して温かく接してくれていたのがどういうわけか当時営業本部長であった進だった。入社して半年ほど経った頃だろうか、比奈子は毎日の仕事内容に物足りなさを感じつつも、いつまでたっても失敗が減らない自分自身のふがいなさに自信を失い始めていた。そんな彼女の異変にいち早く気づき、進はある日終業後の食事に誘ってきた。
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