第1章

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 取締役と二人きりでの食事ということもあり、始めは気が進まず何かと理由を作っては断っていたのだが、進の強引な誘いに負け、とうとう10月最終週の金曜の夜に麻布の小粋な割烹料理屋で食事を共にすることになった。  入社してから半年間、比奈子は社内で進についての噂を度々耳にすることがあった。内容は当時の妻節子とのなれ初めや夫婦不和に至るまで様々だった。  元妻節子とのなれ初めは進が30歳の時、当時の経営企画部長富田の右腕として公私を返上し、「社内活性化プロジェクト」で様々なリストラクチャリングに携わったころだった。経費節減政策の一環として当然中堅社員の早期退職者を募ることもした。急激なリストラ政策で社内は一時混乱に陥り、中堅社員はおろか多くの若手社員までもが退職を希望した。進はその穴埋めのために外部から格安で若い中途入社希望者を募り補充した。  これらの急激な社内調整を行い3年後にはプロジェクト立ち上げ当初に比べ、「太陽製薬工業」は2倍を超える純利益を上げることができた。この功績を認められ、富田は部長から取締役に任命され、この間に進は富田の信頼を得、富田の娘である節子と33歳のときに結婚した。  それから9年後の5月、事態は急変した。どこから漏れたのか、週刊誌のトップ記事で「太陽製薬工業」常務取締役による不正政治献金疑惑が浮上した。インサイダー取引の可能性もあり、新聞紙上を大きく賑わせた。  会長以下取締役は責任を取って辞職を余儀なくされた。富田も例に漏れず取締役を退任させられ「悪しき経営時代」の経営陣の一人として後ろ指を指される立場に急転した。  そして富田ら旧取締役が退任したあと、しばらくして進は新取締役の一人として任命された。富田は何とか進に自分の処遇を緩和してもらえるよう頼ってきたが、進は全く聞く耳を持たず、かつての上司を冷徹に会社から締め出した。この事態を踏まえて進と節子との夫婦生活に影響が出ないわけがなく、節子は当時12歳になる娘清子を連れて富田の元に帰っていった。  
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