第1章

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「それはないだろう。僕だって話したくて話したわけじゃない。落ち込んでいる君を元気づけようと思って話したのだから。それに、二人っきりの食事なんだから肩書きをつけるのは止めてくれないか。」 「は、はあ。」  比奈子は戸惑った。二人きりといえども職場の上司と部下という関係は変わらないのだからやはり肩書きを外して「さん」付けで呼ぶのは失礼ではないのか。しかし本人が肩書きを外せと言っているのだから問題は無いのではないか。 「あ、あのどのようにお呼びすれば・・・。」 「そんなに難しく考えなくていいさ。呼び捨てでも「さん」付けでも君の好きな様にしたら良い。まさか「あなた」とは呼べないだろうけどね。」 「そ、そんな失礼なこと・・・。じゃあ、今日は木内さんって呼ばせていただいてもよろしいですか。」 「ああ、構わないよ。これでやっとリラックスできる。じゃあ僕もネクタイを外させてもらうよ。君はどうも親御さんに厳しくしつけられたようだなあ。」  木内は少しおどけて言いながらネクタイを緩め始めた。  割烹料理店での食事を終え、その後二人は進の馴染みのバーに立ち寄った。割烹料理店では仕事についての話がほとんどだったのに対し、ここでは二人ともアルコールが進んできたせいもあり、お互いのプライベートにまで話が及んだ。 「君は恋人はいるのかい。」 「いえ、学生時代は学校もアルバイトもまっすぐ通ってまっすぐ帰宅してましたから。今も同じようなものです。」 「へえ、やっぱり親御さん厳しかったんだ。」 「それもありますけど、言いつけを守らなければきつく叱られるっていうほどでもなかったです。」 「じゃあ、なぜ。学生時代もさることながら今だってなんとかパーティみたいなものに参加すれば良いじゃないか。」  比奈子はその年になるまでバージンを守っていた。理由は簡単だった。高校時代の片思いの相手が未だに忘れられなかった、ただそれだけの理由だった。  大学に入ってから、その「想い人」を忘れようと同じ学部の学生やアルバイト先の他校の学生などとつき合うことはあっても結局のところ高校時代の「想い人」の顔が思い出され、相手とキスをした後、たとえ彼氏の部屋やホテルの一室であっても「想い人」に対する罪悪感からか、あわててその場から逃げ出してしまうのだった。
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