サクラスターオー

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 競馬を20年以上観ていると、たくさんの強い馬、個性的な馬がいた。その中でも僕を競馬に引き摺り込んだのは彼しかいない。『時間よ戻ってくれ…』とあり得ない事を願ったのもこの時だけだったと思う。    サクラスターオー。当時静内町に住んでいた馬好きの小学生だった僕に小さな喜びと大きな傷を残していった。素晴らしい競走成績を残していただけに、生きていたらと思うと今でも悲しくなる。    サクラスターオーは、小柄な黒鹿毛でスターロッチ系の良血馬として誕生したが生後2ヵ月で母サクラスマイルを亡くし、孤児として育った。昭和61年秋、2戦目の新馬を勝ち上がると、骨膜不安で4ヵ月休養し、復帰初戦の寒梅賞で5着となった。このレースまでは現調教師小島太鞍上だったが、次走弥生賞から東信二騎手に乗り替ることになる。そして、僕の運命も変わるのである。    サクラスターオーは周囲の期待通りに弥生賞を圧勝。皐月賞へと向かった。その皐月賞は、前走スプリングSを信じられない末脚で勝ったマティリアルが人気であった。スターオーは2番人気。道中は中段やや後方に位置し、直線を向いて追い出されると、外から一瞬にして前を捕らえ突き抜けた。そして、シンボリルドルフの岡部騎手にならい、東騎手はウイナーズサークルで指を1本突き出した。    当面のライバルに圧勝し、これでダービーも当確と思われたが、両前脚に繋靭帯炎を発症、休養に入ることになった。故障は長引き、菊花賞も絶望かと思われた。しかし、放牧から美浦へ帰ってきて1ヵ月あまりにもかかわらず、菊花賞出走を決意した。    キャリア5戦、6ヵ月半の休み明け9番人気だったにもかかわらず、皐月賞からぶっつけで菊花賞を制してしまった。僕はTVで観戦していたが何故か泣いていた。    スターオーから脚元の不安が消え、打って変わって絶好調になった。有馬記念まで2ヵ月と余裕があり、調子がよくなって、ファン投票1位である。出さない理由がなくなった。    有馬記念では1番人気となった。僕自身初めて馬券を100円だけ父に頼んで購入した。厩舎関係者も自信のコメントをだし、誰もがヒーロー誕生を期待していた。そんな中、悲しい有馬記念が始まった。スタート直後、3番人気のダービー馬メリーナイスが落馬。運命の歯車が少しズレ始めたのである。スターオーは無理なく好位のインにつけ、手応えは周りの各馬とは違っていた。  
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