「悲しみ」

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「悲しみ」

「 この世は悲しみしかないのよ」 彼女の口癖だった。 「何故そんなこと言うの?」 初めの内は彼も聞かずにいられなかった。 けれども体の関係になってからは聞くのをやめた。 彼女の手首には無数のリストカットの跡が有り、背中や下腹部や太股から足首にかけて虐待らしき痣だらけだったからだ。 それにしては普段の彼女はあっけらかんとしていて笑顔が素敵でそこに惹かれたのだった。 しかし二人きりになると無表情へと豹変し口癖をやめないのだ。 トラウマなどという流行りの精神病用語では済まない心理的外傷だとすぐにわかった。 途中で諦めたものの彼は医学部中退の精神科志望の学生だったからだ。 実務過程の重度鬱病患者に何も出来なかった挫折から道を外れたがペーパーテストでは常にトップだった机上派ではあったのだった。 彼女の病的な行為は日に日に増えて行った。口癖だけでなくネットのスレッドにまで厭世の言葉を書き連ね、メンヘラのカリスマと呼ばれるようにまで称されていた。 逃げよう。 彼は考えたが、好きになった時の気持ちが忘れられない。 それでも彼女はエスカレートし、ついには目の前で自傷行為を始めて止めさせるのにフラフラになった。 彼も自暴自棄に陥り気付けば刃物を手首に当てていて、このままでは自分も殺されてしまうと夜に彼女が寝静まったら部屋を出ようと決めた。 実行に移すと定めた夜、予定通りに深夜彼女は寝息を立て始めた。 押し入れの奥にしまっておいた最低限の荷物を詰めたバッグを片手に玄関へと音を立てないように歩みを進めた時だった。 「お父さん捨てないで、どれだけ殴られてももう泣いたりしないから!」 リアル過ぎる寝言だった。 「お父さんに捨てられたら行く所が無いよ!死んだお母さんの代わりに好きにしていいからここに置いて!鍵を開けてよ!」 泣きながら叫んでいる。 やっぱり自分じゃ無理だ、彼は急いで出て行こうとしたその時だった。 「でもね、もう良いよ。だってお父さんとは別に好きな人が出来たんだ。もう一人じゃないよ。」 泣き顔の上にあの微笑みを浮かべた彼女を彼は抱き締めずにいられなかった。
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