生物学という名の哲学

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「佐倉君。君は生命の死についてどう考える」  遠野教授は二人きりの静かなラボで突然問いかける。つい数分前までメディアの嵐が吹き荒れていたラボ。面会謝絶、通信設備断絶によりようやく静寂を取り戻した白を基調としたラボ。  実験台用の簡素な回転椅子に腰掛けた遠野教授は窓から見える夜の闇に視線を投げた。眼下には出待ちをするマスコミが徹夜を覚悟している様子だった。  なぜこんなことになっているのか。そこから説明する必要があるだろう。  簡潔に説明すると、昨日遠野教授の身の回りの世話をしていたお姉さんが殺害遺体で発見された。  私は何度か顔を合わせていたのでショックが大きかった。おそらく遠野教授はそれ以上なのではないかと思われるが――。  しかし、教授はいつもと変わらずこんな事を聞いてくるのだ。そう、いつもと変わらず――。 「生物の定義としましては、自己増殖能力・エネルギー変換能力・恒常性維持能力の三つが挙げられることが一般的です。人によっては外界との隔絶なんてものを取り上げる方もいらっしゃいますが。私はこの中の自己増殖能力以外のどれかの機能が完全に停止してしまった場合が死だと考えます」 「君は自己増殖能力を除くなんて当たり障りのないことを言うのだね。自己増殖能力、つまりは生殖能力だが、それは遺伝疾患でいくらでも欠損個体が存在しているし、事故や病で自己増殖能力を無くす場合も多い。もちろん老化でそれは確実に失われる。君はそういった個体、主に人に対して差別的な発言と捉えられるのを避けるために先手を打っているのだね。君は賢いよ。それを世間では大人と呼ぶのだろうね」 「いえ、私は単に遠野教授の研究を否定しないように発言したまでです。教授が作られた不死化マウス。細胞単位で減数分裂による自己増殖能力を備えることで細胞死を理論上なくし、個体としての死滅を否定する。代償として生殖機能としての減数分裂を行うことができず、個体の死イコール種の絶滅に繋がる。自己増殖能力の有無を定義に据えることは、ここの学生として不相応だと思っておりますので」 「君の口からは、論理性のある言葉ばかり出てくる。だから僕も好感を持つことができたのかもしれないね」  私は遠野教授と現在交際している。二年前に私のアプローチを受けてもらったのだ。
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