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「ねぇお願い、あたしトマト嫌いだからこれ食べてくれない? もしあなたがお腹いっぱいだったら、こっそり捨てもらえないかしら」
安藤が身支度を整えてダイニングへ戻ると、娘の玲がゴリラに皿を押し付けているところだった。玲は小学二年生になったばかりだ。家政婦のゴリラは小さな主人である玲の言いつけに困惑しているようで、目の前に差し出された皿に手をかけたまま、皿の上のトマトと玲を交互に眺めている。
「まだ食べてなかったのか。嫌だからってごまかしたりなんかしちゃいけないよ。お父さんには全部お見通しなんだから。嘘をついたらそのぶんだけ玲の世界は貧しくなっていくんだ。正直者であることはそれだけで値打ちのあることなんだよ」
ゴリラの前の皿を指さし玲の前へ持っていくよう身振りで示すと、ゴリラは頷いて手にしたままやり場に困っていた皿を玲の前へと返した。ゆっくりとした動作で丁寧だが指が太く人間のようには出来ないので、皿から手を離すと大きな音がした。
「さあ、これから楽しいハイキングなんだから、早く食べちゃいなさい」
「トマトは可愛いくて好きだけど美味しくないんだもん」
安藤の方に顔を突き出しながら言った。
「玲が食べないんだったらお父さん夜までだって待つよ」
「やだー。こっちだけでいい? これだけ食べたら許してよ」
そう言って玲がフォークで指したトマトの果肉は、何度もフォークを突き刺されて水々しさを失いボロボロになっていた。フォークを持つ手はトマトの欠片で汚れている。
「ねーねーいいでしょう」
トマトの種は皿の上にだらしなく広がり、フォークですくうことは不可能に思われた。
「しょうがないな。今日だけ特別だよ。早く食べて着替えてきなさい」
「わかった。頑張ってみるわ」
安藤はグラスに水を注いでリビングへ移動し、カーテンを開けてソファへ腰を下ろした。空は雲に覆われていて、カーテンを開けても室内はまだ薄暗い。
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