第1章

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◇ ◇ ◇ 待っていると言ったのに。 彼を詰る声がある。幼い声は出会った頃の茉莉花だった。 またこの夢か。 慎は思う。 声に応えて憤る。 だって、待ってくれなかったではないか、僕は、私は君の元へ行くと言っていたのに。 君はもう他の男のものになっている。 でも間に合わなかったもの。約束は破られてしまった。 うそつき、うそつき、うそつき! 少女の声は泣き声を孕んで闇へ溶ける。 茉莉花!! 慎は叫ぶ。けれど声が出ない。 苦しい、苦しい。もう止めにしてくれないか。 木霊する茉莉花の声にかぶさるように別の歌声が聞こえる。 かすかに。 喉を鳴らすような発音も滑らかな女の声。この歌は――ドイツ・リートだ。 誰が歌っている?  お前は誰だ! 手を伸ばした、びくりと身体を震わせてはっと目を見張る。 広い部屋にぽつんとひとり。 ここはどこだ? 慎は身を起こす。枕元の腕時計は2時を少し回ったあたりを差している。しかし、外は朝の訪れを告げている。 その証拠に、鶏の鬨の声が聞こえてくるではないか。 腕時計と鶏、どちらが正しい? 鶏に決まっている。 腕時計は奥多摩へ来て以来ねじを回していない。止まったと考えた方が自然だ。 枕元に時計を置いた時、裏木戸が軋む音が遠くから聞こえた。このが入る気配がする。房江だ。隣家に身を寄せた彼女が帰ってきたらしい。 慎は床から身を起こした。二日間寝込んだ身体は大丈夫、ふらつきもしない。これなら帰れる。 台所があるあたりでは、音を忍ばせ、仕度をしている様子がする。 慎は音がする方の襖を開けた。 北側に面した台所はまだ薄暗い。 灯りを付けずに包丁を動かしていた房江は顔を上げた。 驚いた表情を浮かべ、口元は少し開いていた。幼く見えた。無防備だった。
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