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「そうだ、前の職場で同僚だった。奴の家族にお返ししたいのだ」
「そんなに大切なものでしたら、先生が直にお届けになるのが筋かと。線香の一つもあげに行かれてはどうです」
「柄になく殊勝なことを言うのだね、君は」
柊山は、はははと笑う。慎は苦笑した。
慎の良からぬ行状を武の次に良く知る人物だ。公にはいい歳した大人がすることだからと放置してはいるが、折に触れて諭され、叱責されていた。相手も自分も貶める遊びからは卒業せよと言って。
慎が守った試しは一度もない。
「面目もありません」
慎は目を伏せる。
「親の月命日が近いので」
「そうか、君は確かご両親を亡くされていたな」
「はい」
「あまり道楽が過ぎると、ご両親が草葉の陰で泣くのではないかな」
ただ頭を下げてやり過ごすしかない。
柊山は訪問先の住所と名前を記した書き付けを差し出す。
「必ず、その日の約束した時間に着くように。相手は時間に厳しく気難しい人だから」
「了解しました」
硫酸紙で本を包み、押し頂いて帰宅した。
がらんと広い家はひとりで住まうには広すぎる。この家は慎にとって聖域だ。世俗を持ち込まない、全くの私的な空間で、自分の縄張りだ。友人も滅多に招かず、女は絶対寄せ付けない。友人でこの家に入ったのは武ぐらいだった。
普段使うのは音は客間だった部屋だ。ここは襖を一つ開け放ち、居間兼書斎兼寝室として使っている。
慎が使うのはあとは仏間ぐらいだ。ここには両親の位牌がある。両親は大切な物はまずは仏間の仏壇に置いていた。それは慎にも受け継がれていた。長年染みついた習慣は不思議と抜けない。
慎が託された遺品だという品は彼にとってはただの本だが、遺族には別の意味を持つ。
預かり品を引き出しにしまって、慎は項垂れ、誰ともなしに言う。
ただいま帰りました、今日も一日終わりました、――生き延びました、と。
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