箱ガール

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 ただ、影はしきりに口を動かし、なにかをつぶやいていた。デスメタルのような雨音が、その声をかき消す。近づけば、聞こえたのかもしれない。けれど、耳を貸す気にはなれなかった。それどころじゃなかったのだ。  排水溝のふたがとれかけの義歯のように浮き、ドブ水を吐きだしている。すでに道路は冠水しつつあった。通行人の姿は見当たらない。ときおり車が水しぶきを上げて通りすぎてゆく。  場所は、某市のT駅前大通り。普段は道行く人たちで賑わっているが、さすがに今日は閑古鳥が鳴いていた。ショップのほうも商売どころじゃないらしい。浸水を恐れる店員たちが、モップや土嚢を使って雨水を押しだそうと必死であった。  逃げだすなら、このタイミングしかない。考えている余裕は、今の僕になかった。ビルとビルの谷間から飛びだし、僕は脇目も振らず通りを駆け抜ける。雨水が足にまとわりつく。霧のような雨のせいで前がよく見えない。動きが鈍くなる。それでも走った。走らなければならなかった。
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