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膝を軸に重心を傾け、抉るように右拳を叩きつける。
年季の入った砂袋が、ずごっという鈍い音を立ててよろめいたところに、すかさずもう一発を撃ちこむ。
早乙女(さおとめ)篤(あつ)、十五歳。これが毎朝の日課だ。
最近の高校生にしては珍しく、朝五時半に目覚めてはランニングをして、自宅兼ボクシングジムの一角で撃ちこみを行う。静かな室内には衝撃音が鳴り響いていた。
季節は霜月に差し掛かり、早朝はもやがかった冷気に満たされているが篤には関係ない。火照った身体を絞り上げるように汗で濡らし、それでもまだ拳を撃ち続ける。
篤がそれを止めない理由はただ一つ。こうしていると落ち着くのだ。別になにかが気に食わないわけではない。誰かに怨みがあるというわけでもない。ただ拳を振り切っている間は自分が自分でいられる気がしていた。
俺は強い。屈しない。誰も俺から奪うことはできない。この拳さえあれば……。
瞬間。古ぼけて黄土色を孕んだサンドバックに母親の顔が映った――気がした。
それに気を取られて、自慢の左フックはコンマ一秒遅れる。
「……ッ」
篤は舌打ちをした。もしこれが試合だったらダウンのチャンスを逃していたかもしれない。小さくため息を溢して、篤はやっと腕を休ませることにした。洗面所へ移動して頭から冷水をかぶる。手探りでタオルを掴み、顔を起こして瞼を開く。
正面の鏡に映った顔がさきほど見た幻影に似ている気がして腹が立った。
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