種村奈緒

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        【3】  「お名前からお伺いしましょう」  月下氏は先ず名前から訊ねた。ここに入る前に誰が誰か名乗っていなかったので月下氏は皆の名前を知らないのも無理はないのだけれど――  「種村…、奈緒…、と申します」  「しむら…、なおさん…、か」  月下氏は面談者のあれこれの情報を覚えておく為か、手帳にさらさらと答えた事を書き留めた。  「奈緒さんは、ご職業は?」  次は職種を質問して来た。  「古書堂を自営業でやっております」  「古書堂、と」新たに書き足すと「どのような本が好きですか? 極個人的な質問ですが」  「江戸川乱歩の“屋根裏の散歩者”“陰獣”“芋虫”“黒蜥蜴”三島由紀夫の“愛のコリーダ”夏目漱石の“こころ”が好きです」  「ふむふむ」月下氏は身を乗り出してそう言うと続けた。  「奈緒さんは随分と文学に深い見識と理解があるようですね」  古本屋を経営しているのでそれなりの読書経験や見識に内面の研磨はあると思うのだが。  「“芋虫”は乱歩が改稿してしまったのが残念でいたたまれない…須永中尉のあの描写あってこそ、時枝夫人の狂態めいた愛と言うものが引き立つんだよ。だからこその純愛と呼べるのではなかろうか」  小説の話になると、途端に饒舌になった。  「私には“相手が如何なる姿になっても愛し続ける覚悟があるか”と言われたような気がしました。その傍らで、人間は自分の悪意から目を背いて生きる事は出来ないとも……」  店頭に並んだ本などから見てもこれからは、引き算の存在しない五体満足の男女の恋愛の本が出版される事は推察出来る。 富国強兵の色が強かった大正の頃から退廃的で反戦的だと国が定めたものは皆、完全否定されて来たのだから仕方ないことなのかも知れないが。 月下氏も、そんな世の中に厭世的になったが故にこんな片田舎に屋敷を構えて棲んだのだろう……
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