結髪

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外では仮面夫婦を演じ、仲の良い夫婦と羨ましがられていたが、内では会話すらしなかった。 女には、金さえあればそれで良かった。夫など二の次三の次だった。 女の服装が日々煌びやかになり、身体も肥えていったのに対し、男は段々と痩せ細っていった。 愛のない偽りの夫婦生活に、男の精神状態は、最早極限状態に達していた。 こんなことになるなら縁を結ばなければ良かったと、今更ながら後悔した。 会社が休みで、女が外に出掛け、男が家の掃除をしていたとき、箪笥の上からあるものが落ちてきた。 畳の上に落ちたそれを拾い、男は思い出した。 あの店主の言葉を。 「もし縁を切りたい時は、これを使いな。」 男が手に取ったのは、 あの時貰った櫛だった。 男は迷った。 この櫛を使えばこの息苦しい生活から抜け出すことが出来る。だが、それと同時に彼女が自分から切り離される事となる。 腐っても自分が好きになった女。その彼女を、独りにして本当に良いのだろうか。あれだけ金に執着していたんだ。独りになったら、生きていけなくなるのではないか。 男は優しく、そして甘かった。女は男の事を『金を貢いでくれるただの道具』としか思っていないのに、男は女の身を案じていた。そして何より、女に対して未だに愛を持ち続けていた。自分の思いを相手は気付きもしないのに、だ。 だがその優しさ故に、兄夫婦を、そして父を死に追いやってしまった。全ては、妻の金欲故に。 女への愛と憎しみが、男の心の中で渦巻いていた。 その時だった。 後ろからすっと手が伸びてきて、持っていた櫛を取られ、 その櫛で男の髪が解かれてしまった。 抵抗すれば良いものを、男は動こうとしなかった。いや、動けなかった。 恐怖で身体が固まってしまったからだ。 何故固まったのか。それは、解かれた時、声がしたからだ。男性の、しかも何人もの人の声だった。 「在りし日の愛 過去の情 憎き思ひは 今の情 苦悩するのは 夫方 後に悔いるも 夫方 夫の道は 獣道 その道辛しと 思うなれば 断ちて思ひを 棄て去らむ そして共に 堕ちて行こうぞ 罪晴れる日来ぬ 生地獄へと。」 まるで歌舞伎のように語るその複数の声には、まるで生気が宿っていないようだった。 男は勇気を振り絞り、後ろを振り返った。 だが、そこには誰も居なかった。 あるのは、足下に落ちている櫛だけだった。
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