結髪

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男は顔を真っ青にした。 後ろに誰も居なかったからではない。 櫛を使ってしまったからだ。 髪を解いてしまった-- 縁の切り方は知らないが、恐らく髪を解けば切れるのだろう。 その証拠に、落ちている櫛に 髪の毛が引っ掛かっていた。 店主が男の髪を洗髪したあの時に感じた違和感。 恐らく、これが縁結びの正体なのだろう。原理は良く知らないが、相手の髪を自分の髪に結ぶ事によって、男女の縁が結ばれるという。 今を思えばおぞましい現象だ。自分の髪に、相手の髪が絡まっているのだから。 強大な不安の他に、男は安堵もしていた。 こんな恐ろしい事をしてまで結ばれた関係から、これで漸くおさらば出来るのだから。 だがこの事を妻には何としても知られるわけにはいかない。 男は急いで櫛に絡まった女の髪を取り除き、箪笥の上に置いた。 これでバレないだろう。後は何事もない事を祈るだけだ-- 男は、ただひたすら祈った。 女の帰りを待っていると、自宅に一本の電話がかかってきた。 相手は女の付き人で、嗚咽を漏らしていた。どうやら泣いているらしい。 どうしたのか、と男が付き人に尋ねると、付き人から思いもよらぬ言葉が返ってきた。 奥様が突然意識を無くした、と。 宝石店に立ち寄り商品を見ていた所、急に立ち眩みがし、その場に倒れ込んだとのこと。その後病院に救急搬送されるも、未だに意識が回復しない状態であると、付き人が泣きながら言った。 男は後悔した。 自分が縁を切った事で、女が重篤な状態に陥ってしまったのだ。これは言わば間接的な殺人行為である。 自分の愛する人を、手に掛けてしまった-- 兄夫婦のみならず妻までも手に掛けたその罪悪感から、男は絶望した。 耐えきれず、死のうとさえ思った。 だが、妻はまだ生きている。自分が死んで妻は生き延びたとして、恐らく一人でも生きては行けると思うが、如何せん妻は社長には向いていない。倒産してしまい、それこそ極貧生活まっしぐらだ。 妻にそんな思いはさせたくない。また、自分を慕ってくれている社員も失うわけにはいかない。 絶望の淵で男はある行動に出た。 それは極めて人間的な感情から産まれた、 尋常ではない行動であった。
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