第一部 「彼女の役割」

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 そもそも飛鳥さんは、うれしくて笑うとかおかしくて笑うとか、そういう自然な笑みを見せたためしがない。誰かの言動に反応するのではなく、こんなふうに、独りで勝手に笑い出すのだ。とても女子とは思えない奇声を発しながら。  「な、何ですか、あなた! ……えっと、誰だっけ」まだ顔と名前が一致してない担任は、教卓の座席表を見た。「飛鳥さん? とにかく、席に着きなさい!」  だが飛鳥さんは意にも介さず、すたすた歩いて教室を出ていこうとした。  「あぁ、気にしないでセンセ、ちょっと呼ばれちゃってさ」  「呼ばれた?」もちろんそんな呼び声やコール音はどこからも伝わってきていない。「授業中は携帯の電源を切りなさい、と───」バイブの振動音も聞こえなかったが、教師はそう決めつけた。  「あぁ、違う違う、気にしないでよ───センセ、三行目スペル間違ってる。ロサンゼルスの最後は s じゃなくて es。スペイン語由来の地名だからね」  「え、そうなの?」  注意がそれる間に、飛鳥さんはがらり、ぴしゃんと、教室の後ろの戸を開け閉めして出ていった。  はっと気づいて、担任はすぐに後を追って教室を出ていったが、ちらちらと廊下を見回すと、「変ねぇ、もういない。逃げ足が速いこと」とひとこと毒づいて、すぐに戻って授業を再開した。  奇妙な事実に気づいた者は僕以外に何人いたろうか───気をそらされたとはいえ、教師が黒板に目を向けてから、彼女を追って廊下に出るまでに、五秒となかったはずだ。そして一―Bの教室は二階にあり、校舎の西階段と中央階段の間にA組?D組の教室が並んでいる。五秒足らずの間に、音も立てずに階段まで駆け抜けたのか? 不可能だ。それとも窓から中庭に飛び降りたのか? A組やC組の教室に潜り込んだのか? いずれにせよ、誰かが気づいて騒ぎになってよさそうなものだ。だが何も起きていない。彼女は、教室を出たとたんに消えたとしか、説明のしようがなかった。  彼女と同じ中学だった者が何人かいて、中学の頃からずっと奇妙な人だった、と証言した。学外の世間様に迷惑をかける問題行動はないし、何しろ成績は抜群によかったのでおとがめなしだったらしい。  その話が広がる頃には、生徒も教師もみな慣れて気にしなくなっていた。老婆にも見える白髪も相まって、誰が言うともなく、B組の魔女と噂されるようになった。
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