第一部 「彼女の役割」

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 ───そこに彼女はいた。やっぱり、壁に背をもたせかけていた。  気のせい?  いや……確かに、数秒、消えた。  ふっと理解した。彼女が授業をサボり、教室からいなくなるのは、この「消える」現象を他人に見られたくないからだ、と。あの英語の授業のとき、教師が廊下を見たタイミングで、彼女は逃げたのではなく「消える」現象の最中だったとすれば、辻褄は合う。  飛鳥さんが壁から離れ、再び階段を上ってきたので、僕は慌てて立ち上がった。見ていたと知られるのが気まずかった。  僕と飛鳥さんはそのまますれ違った。飛鳥さんは、踊り場で立ち尽くしている僕を気にも留めなかった。ただ、彼女はどこか疲れた様子で、そして───僕は一瞬、金属の檻に囲まれた感覚に陥った。彼女に血の匂いがまとわりついていたせいだ、と気づくまでに、少し時間がかかった。  その日の放課後、僕は意を決して、昇降口で靴を履き替えている飛鳥さんを呼び止めた。  「飛鳥さん」  「ん? 友納くんか、なんだい?」  名前を覚えていてくれたことがちょっとうれしい───というのは置いといて。  返事はしたものの、動きを止めてはくれなかった。つま先をとんとんと三和土(たたき)に打ちつけてかかとを収めると、飛鳥さんは昇降口を出て歩き出した。僕も靴を履き替えて追いかけた。  「ちょっと待って、えっと、ちょっと話、いいかな」  「あたし、もう帰るんだけど」  「じゃあ、一緒に帰ろう」  自分でも、何を言ってるんだ、って驚いた。まるで誘ってるみたいじゃないか。  「一緒に……って」飛鳥さんはひっひっひ、と本当に魔女みたいに笑った。「あたしんち、すぐそこだよ。近いからこの学校にしたんだから」  飛鳥さんは親指を立て、駅の方角を指し示した。徒歩五分とかかるまい、駅前にそびえるタワーマンション群のことを言っているようだった。  「それでもよけりゃ、好きにしなよ」  飛鳥さんはさっさと歩き出して、駅の方向へ通ずる通用門へ向かった。僕は急いで自転車置き場に走り(僕は一五分くらいかけて自転車通学しているのだ)、自分の自転車を引っ張り出して後を追った。  変な誘い方をしたから、逃げられたりしないか少し心配したけれど、杞憂だった。通用門への通路脇には武道場があって、女子弓道部が黒髪を揺らしながらランニングする傍らを、ぽつんと目立つ白髪が悠然と揺れていた。
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