9人が本棚に入れています
本棚に追加
▽
「伊藤さん」
月末の些末な処理が重なり残業してから一階に降りると、私のとりあえずの今彼、蓮見さんが待っていた。
「あ」
食事の約束をしていたのを、私はすっかり忘れていた。
昔から、こうだ。
恋愛に執着の無い私は彼氏との約束を忘れ愛想を尽かされる。まぁ、それが原因で振られても少しも堪えないのだけれど。
もしかしたら人を本当に好きなった事など無いのかもしれない。
幸か不幸か告白される事は多い。
とりあえずは付き合ってみるけれど私から振る事も度々。
先輩は下らない事、と言ったけれど‘’食べ方が汚ない‘’は、私の中では一発アウトだ。
完璧主義という訳では無いけれど、祖母が厳しい人で特に食事中の作法を叩き込まれたものだから。
元彼はルックスが良くてモテる男だったけれど、食事中のマナーが最悪で注意しても逆ギレするわで、どうしても許せなかった。
蓮見さんは約束に遅れた私を笑顔で迎え、今人気のカジュアルフレンチに連れて行ってくれた。
彼のテーブルマナーは完璧だった。
海外事業部のエースである彼の、各国を出張で訪れた時の話なんかはウィットに富んでいたけれど。
社内で結婚したい男性No.1の 彼と、私の接点は何も無かった。
『どうして私を?』
私はこの疑問が喉元に引っ掛かって、ディナーを楽しみ切れずにいた。
私を家まで送ると蓮見さんは「今日は、すごく楽しかったです」 と言った。
彼は終始ニコニコで、この言葉は嘘偽り無いものだと分かった。
「また食事に行きましょう。どこか行きたい所はありますか?」
ずっと彼に話をリードして貰っていて『はい』とか、『ええ』とかしか言っていなかったことに気づいた私は、少し位は気の効いたことを言わなければと「この間雑誌で見た和食のお店に行ってみたいです。確か……『善』ってお店」と提案してみた。
「和食……ですか」
すると彼は、予想外に少し困った顔をした。
何が彼を困り顔にしているのか分からず、
「えっと、そんなに敷居の高いお店では無いですし、次は私が支払います」と言った。
「いえ!伊藤さんがせっかく行きたいお店なんですから、是非行きましょう。それに、勿論支払いは僕がします」
彼はそう言ったあと少しボリュームを下げて、一言呟いた。
「え?」
「いえ。おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
よく聞き取れなかったけれど、多分彼は。
『がんばります』
そう言った。
最初のコメントを投稿しよう!