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「お名前が書かれていますのに、他の方と取り違えるはずがありません」
――確かに。
あちこちに置いたままにしてしまう夫の行動を見抜いた妻は、夫の持ち物に姓名をしっかり書き入れていた。まるで子供の持ち物に名付けをされているようで癪だが、だから手元に届くのだ。
礼をしたいと茶や食事を持ちかけても、茉莉花は決まってこう言った。
「またのご利用をお待ちしております」
当てこすりとしか取れない言い方だった。
コツコツと足音高らかに去る姿は、まるでデパートのマネキンかファッションモデルのようで学校内の注目を集めた。
守衛達の人気者になった茉莉花は来訪を心待ちにされる存在になり、当然、慎との関係が噂されて広まり、ついには武の耳にも届いた。
「また悪い病気復活かい? もっとも、今度の人は長続きしているみたいだけど?」
ちくちくと言う武は、もちろん本気にしてはいない。
当たり前だ。
彼女とはただの客と客室乗務員だ、それ以上でもそれ以下でもない。
が――
ただ希望だけを糧としていた頃は、隣にいる女は茉莉花だけだと信じていた。人の思いは変わりようがないと。
もし、時を巻き戻せるものなら、あるいは結核を発症していなかったら、今とは違った生き方をしていたのではないか。
甘い想像に心遊ばせたくなる。
――何をバカなことを。
もし健康だったら、自分はここにこうして立っていない。軍に予定通り入営し、訓練を受け、帰れる保障のない戦線に投入され、そのまま散っていた。
房江と出会わず、結婚もせず、息子も産まれてなかった。
これが私の運命だ。
受け入れよ、自分。
帽子の内側の目立たぬところに、くっきりと記された自分の名を見る。
房江の字だ。息子が書道家を志したのは血筋だからと言えるくらいに、流麗で、墨の色まで美しい文字だった。
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