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◇ ◇ ◇
「慎先生、お帰り!」
茉莉花の表情が気になりながら戻った学校では武が待っていた。近頃の彼は慎を『慎先生』と呼ぶ。
『先生』と呼ばれるのに相応しいのは君の方だ、止してくれたまえ、と言ったところ、いいからいいからと取り合わない。
武こそ先生と呼ばれるのに価する人物だ、だから誰も彼も、知人も見ず知らずの他人も彼に対して敬意を払う。多くの人に親しまれているのに、不思議と『武君』あるいは『武先生』以外の呼称で呼ばれているのを聞いたことがない。彼の妻ですら未だに夫を『武君』と呼んでしまうという。
一分の隙もなく整えられた男のいでたちで、ベストのボタンに留められた懐中時計の銀鎖がキラキラ輝いている。その時計の蓋を開けて、武は言った。
「いつもより早く帰れたんだね、どうだい、あちらの方は」
「特に変わりない。皆も良くしてくれる」
「そりゃそうだろうさ、彼らは慎先生を欲しがっているんだもん。大切にもするよ」
「ああ、有り難い限りだ」
「こっちは有り難くないよ」
子供がするように、ぷーっと頬を膨らませて武は愚痴る。
「うちの学校の面々はみーんな石頭だ。今まで何人出て行ったと思う? 優秀な人材流出の危機だっていうのに、なーんの手も打たないんだもん。歯がゆいったらないよ」
「武君、あまり滅相もないことを言うな。誰が聞いているかわからないぞ。君の立場も危うくなる」
「いいよ、別に」武はあっさりしたものだ。
「そしたら、僕も余所へ行っちゃうまでだ」
「おいおい。君は、私がここへ戻れるようにしてくれるのではなかったのか」
「あ、そうだったねえ」
からからと笑う武は屈託がない。
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