第1章

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まったく、この男は恐いもの知らず過ぎる。 この憎めなさが武の最大の武器だ。慎の暗い感情ですら収めさせてしまうのだから。 「ま、与太話はここまでにしといて」武はぱちんと銀時計の蓋を閉め、ポケットに仕舞う。 「報告、してもらおうかな。今日は一次考課の下書きをもらうことになってたね」 こいつめ。 内心で苦笑した。いきなり上席の顔をする。しかも板についてきている。 「ああ、もちろん」と慎は答える。 手元のブリーフケースを開け、クラフト紙の封筒を指先で弾いた。 鞄を開けた瞬間、変だと思った。何かが足らない。あとひとつ、厚みのある封筒が入っていてしかるべきなのに――見当たらない。 「どうしたの」 眉間に縦皺を立てた慎に、武は声をかける。 「――ない」 「ん? ない?」 「書いたはずのドキュメントが、一切合切ない」 「ということは」 「紛失したか、忘れたか」 「忘れてきたんじゃないの? 九州に連絡して速達で送ってもらいたまえよ」 「いや、それはない」 「何で?」 「こちらへ戻る機内で手直しした。途中で万年筆のインクが出なくなって手を止めたところまでは覚えている」 機内は気圧の関係でペンはインクが漏れ出し、使い物にならなくなる。わかっていたが、どうしても直したいところがあって手を加えた。いよいよペンが使えないとわかったところで手を止めた。 その時、友人から声をかけられて息子の習字話に花が咲いた。 胸ポケットから出した半紙を畳み直したのは覚えている。しかし、肝心の書類はどうしてしまったのか。 ――しまった。 「忘れてきちゃったの?」 武は呆れ声を上げる。
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