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当然だ、無駄に時間を使わずに済んだのだから。ここまでまとめたものを再度作成するとなると、いくら下書きがあっても今晩徹夜しても終わるかどうかわからない。
「お役に立てて宜しゅうございました」
小さくお辞儀して、では私はこれで、と席を立つ彼女に、慎は「君」と呼び止めた、高遠君とは言えない、茉莉花とも呼べない。用を頼む時は『君』と声をかけていた、いつもの感じで。
彼女はゆるくパーマをかけた洋髪がとても良く似合う小さな顔を心持ち傾げた。
何か用があるわけがない。
なら、どうして声をかけた?
慎は自分に言い訳をする。
理由などない、このまま帰したくないだけだ。
言葉を探す彼の口から出て来たセリフは、「今日のお礼をさせてもらえないのかな」だった。
彼女の側には礼をさせてもらう筋合いはない。間抜けたことを言ってしまった。慎は焦る。なのに、焦りに上塗りを重ねた。
「食事でも一緒に、どう」
帰ってくるまでお待ちしています、と妻が言ったではないか。妻子が父親の帰りを夕食も取らずに待ちかねているんだぞ。間抜けもいいところだ。笑うしかないではないか。引きつった笑みが慎の面に浮かぶ。
茉莉花は、きっと呆れている。そう思ったのに、彼女は能面のような整った表情を少しだけ緩めた。
笑むと刻まれる笑い皺一本すら魅力なのだ、彼女は。
一瞬、慎は茉莉花に見とれ、自分の立場と居場所を忘れた。
けれど、それは束の間のこと。すぐに茉莉花は、いつもの、慎にだけ向ける冷たい笑みを浮かべ、小さく会釈してするりとドアの向こうに身を滑らせる。
そして、「またのご利用をお待ちしております、尾上様」と言って、その場を去って行った。
こつこつと、ヒールが床を蹴る音が遠ざかる。
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