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「あのう、もう閉めていいですか」と守衛に声をかけられてはたと気付いた。慎は立ち尽くしたままだったのだ。
「あ、ああ」
慎は手に持ったドキュメントを封筒にしまい込みながら室内の電灯を落とす。
「先生ほどの人でも呆けることがあるんですねえ。ま、美人でしたからねえ、見とれる気持ちもわかりますよ」
いや、眼福でしたな、と言って、守衛は人の悪い笑みを残して去る。
慎は小さく息を吐いていた。
もし、彼女が誘いに乗ってきたらどうするつもりだった?
自問したがすぐに思い直す。慎が知る茉莉花は、少し誘われたくらいでなびく女ではない。身持ちの堅い娘なら、日が落ちて遅くまで外を出歩くようなことはしない。職業婦人でも仕事が終わったらすぐにでも帰宅する。彼女も自分の家へ戻った。おそらく、家族が待つ場所へ。今後も誘ったところで応じることはあるまい、バカなことをした。
慎は研究室さして再び駆け出した。
私も家へ帰ろう。
無性に息子と妻に会いたくてたまらなかった。人恋しい思いで走る自分が滑稽だった。
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