第1章

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普段より早く起床した朝の空は、いつもより白く見えた。 慎は多めの書類などを持参するのに使っている慣れた鞄より一回り大きいブリーフケースに詰め換えて玄関先に置いた。この鞄は英国に短期留学した時に現地で買い求めたものだ。堅牢なヌメ革の鞄から仕立ての良さが滲み出ている。今は若い革の色が所々に残っているが、いずれ全てが飴色に変色して艶を放つ頃、自分は何をしているのだろう。 鞄を見下ろしながら両手を腰に当てて小首を傾げていると、お食事できていますよ、と後ろから声をかけられた。 ますよ、と舌足らずな幼い声も続く。 小さく頷いて、慎は廊下を大股で歩いた。 「今行く」 広すぎる家の食卓には、味噌汁と白いごはんが湯気を立てて主の到来を待っている。 家族とともに。 「お時間は大丈夫ですか」 「ああ、問題ない」 妻の問いに、かりりと香の物を囓って慎は答えた。 「何、乗客が揃うまでは飛行機は飛べない。待たせておけばいい」 「まあ、そんなこと言って」 呆れながら、妻、房江はため息をついた。 夫は本気で言っているのではないと良くわかっている。が、時々、彼は自意識過剰に走りすぎてしまう。諫めると何とも魅力的な笑みを浮かべて「冗談だ」と言い返す。困ったことに、房江はこの表情が好きなのだった。憎めなくて困ってしまう。 「お帰りはいつ頃になりそうですか」 「今回は初めての顔合わせだから、トンボ帰りとはいくまい。なるべくなら明日中には帰るようにしたいが……相手次第となるだろう」 「もしお帰りが遅くなるようでしたら、お電話下さいな」 慎は答えて大きくひとつ会釈する。
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