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「何か欲しいものはあるか。買って帰るが」
「いいえ。まずは無事にお帰り下されば充分です」
ここで房江は眉間に皺を寄せる。
「何も飛行機をお使いにならなくても……」
房江は夫に正面切って反対だとは言わない。しかし歓迎もしていない。夫は飛行機好き。妻は大の飛行機嫌いだった。空飛ぶ物は落ちると相場が決まっている。危険極まりない乗り物ではないか? というわけだ。
黙り込む妻に、慎はいつも同じことを言って諭す。
「日本のパイロットたちは優秀だ、彼らの技量は世界一だよ」
「でも……」
「陸からも海から移動に時間がかかりすぎる。今日行って明日帰る芸当ができるのは空路だからだ」
箸を置き、「行ってくる」と慎は席を立った。
房江は夫を玄関先まで見送る。
「お気を付けて」
「家と政のことを頼む」
「はい」
慎が玄関の敷居をまたいだ時だった。奥からぱたぱたと、長男が走り出てきた。
幼稚園に上がってまもない息子の政は、少年らしいやんちゃ者だが、幼い男の子にありがちな身体の弱さを抱えていた。朝元気でも夜には高熱で寝込む。その逆もあった。熱が高いのに外で遊びたがってこじらせる。親としては何とも落ち着かず目が離せない。
「お食事を食べ終わるまで席を立ってはいけないでしょう」母のお小言に耳を貸さず、政は父に1枚の紙を差しだした。
習字用の半紙に黒々とした墨跡の素直な線。ど真ん中に大きな丸。迷いもなく一気に書き上げた円。
見事に引かれた一本の線を、子供が書いたと誰が思うだろう。いや、子供だから迷いを知らない。
慎は政が書くものを、親の欲目を抜きにしても素晴らしいと思っていた。
「良く書けたな」両手で紙を受け取り、高く掲げて見た。
「ありがとう、今日の出張に持って行こう。政がくれたお守りだ、私がいない間も良い子にして、お母さんの言うことを守れ。お稽古も良くやるように」
政は顔を輝かして父を見上げた。
慎は半紙を丁寧に畳んで胸ポケットにしまった。
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