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能面のような顔で慎を見る態度のままに、取り澄まして仕事をしてくれればいいのにそうではない。これでは無視したくてもできない。心がどうしても彼女へ向いてしまう。
一度など、もう少しでタラップの頂上から真っ逆さまに落ちそうになった。
思わず手が伸びたが、彼以外にも周りの乗客や同僚がこぞって助けに走った。あわやというところで彼女は踏みとどまり、恐怖に固まった顔は次に照れ隠しの笑みで満開となった。
――そうだ、この顔だ。
慎がこよなく愛した少女の笑顔。あと一人いや、二人、先に立っていれば間違いなく彼女を助け、笑顔を向けられていた男は自分だったはずだ。的外れもいいところだが、慎はその乗客に嫉妬した。
嫉妬?? 何故だ。
慎は混乱する。
気持ちが定まらないまま座ったその便で、慎は茉莉花と差し向かいの席に座った。
客室乗務員は離着陸時に客と対峙して周りに隈無く目を配る。先頭に座る彼だけを見ているわけではない。しかし、再会して、こうも近くにお互いの身を置いたことはなかった。
慎は口を開いていた。
「久し振り」
彼女からは何の返答も会釈もない。しかし能面の表情が少しだけ微笑んだように見えたのは彼の勘違いではあるまい。次に寂しそうな表情を浮かべたことも。
膝の上に置いた手に光る指輪が重い。自分は左薬指に指輪を持つ者だ、もう昔には戻れない。
時は巻き戻せない――
何も入っていないはずの背広の胸ポケットがかさこそと鳴った。乾いた紙の音は息子が書いた習字の、半紙の音だ。とても重い。
慎は、自分を繋ぎ止めるそれらを、背負う重さを枷と思えたことに少なからず衝撃を受けた。
旅先から帰ると、夫の肩から背広を引き受ける度に房江は言った。
「何か良いことでもあったんですか?」
「いや、別に?」肩越しに振り返りながら慎は問う。
「何故そう思う?」
「わかります。近頃楽しそうですから」房江は上着をハンガーにかけながら言う。
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