第一章

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あるとき隣人に趣味の話をした。 絵が趣味で、出産前はデザイナーをしていたと話すと、その絵を絶賛した隣人は百合子にフェイスブックを薦めた。 百合子は勧められるがまま登録をしてみた。 百合子の心の奥に眠っていた自己顕示欲が穏やかに目を覚ます。 家族以外の人間と会話しない日もある日常の中で、フェイスブックは百合子を社会とつなげてくれる大事な糸になった。 はじめは知り合いの間だけで見られていた百合子のウォールに、着々と新しい訪問客が増えていくようになった。 ある日の事。 颯を送り出し、パソコンを起動させると、さっそくフェイスブックを開く。 すると、メールが一件届いている。 「差出人 あべまりあ 本文 こんにちは、中村百合子さん。絵本作家のあべまりあと申します。あなたのスケッチを拝見しました」 メールの内容は、有名な絵本作家のあべまりあ先生からだった。 彼女は友人がシェアした百合子の絵を見て、とても気に入ってくれたという。 そして驚くべきことに、新しい絵本の挿絵を百合子にお願いしたいと言ってくれたのだ。 百合子は驚き、不安になったり喜んだり、とにかくじっとしていられなかった。 まるで夢のような話だが、あべ先生はどこの馬の骨ともつかない自分に白羽の矢を立ててくれたのだ。 フェイスブックに掲載された絵だけをたよりに。 百合子は公式ホームページで改めて電話番号を確認し、メールの内容がいたずらでないことに体を震わせた。 百合子は夫の健一が家に帰るとさっそく有名な絵本作家からメールが来たことを話した。 健一は首をかしげて聞いていたが、「やりたいようにやれば」とテレビを見ながらつぶやくだけだった。 いつものことだ。健一の心の中にあるのは、仕事で疲れた頭をからっぽにすることと、昨日買ったロトシックスが一等を当てるかどうかだけ。 百合子は何度かあべ先生と打ち合わせをして、絵本の挿絵を描く仕事を正式に請け負う事にした。 まずはあべ先生から送られてくる絵本のあらすじを読み、あべ先生が適当に書いたという原画を、百合子が丁寧に書き直していく。 仕事は楽しくて、百合子は夢中になって取り組んだ。報酬も驚くほどいいものだった。 月日は流れ、出来上がった絵本が送られて来た。 さく あべまりあ え なかむらゆりこと書かれた表紙の文字を眺めて、百合子は子どものように飛び跳ねて喜んだ。
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