第一章

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そうだ、颯が見つかったら今日はレストランに行って、好きなものを好きなだけ食べさせてあげよう。ブロッコリーと人参を残しても怒らないであげよう。 分厚い雲に隠れた太陽が、ほんのりとした明かりすら見せなくなると、あたりは一気に暗くなってきた。 「颯! 颯!」 二人でよく行った公園にも颯の姿はない。 近所の人たちが一緒になって探してくれた。 しかし、颯はどこにもいない。 夫の健一はいつの間にか帰宅していた。歩き回ってびしょぬれになった百合子を、健一は無言で責めた。 お前が付いていながらどうして颯はいなくなったんだ。健一の目はそう語っていた。 「だいたいの話しは聞いたよ。バトンタッチだ。今度は俺が探してくる。お前は颯が帰って来た時迎えてやる準備をしとけよ」 雨合羽のフードを目深にかぶった健一は懐中電灯をぶら下げ、それ以上何も言わずに出て行った。 百合子は颯が玄関に散らかしたままの靴を胸に抱いて、嗚咽を漏らしながら泣いた。 悪い考えが浮かんでは消える。変態に連れ去られて、いたずらをされていたらどうしよう。颯は負けん気が強いから、抵抗して殴られてしまうかも、あるいはもっと恐ろしい仕打ちを受けているかもしれない。想像しない方がいいことはわかっているのに、どんどん膨らんでいく悪いイメージ。 こんなに愛しているのに、そばにいる時はひどい事ばかり言ってしまった。 私はなんて愚かな母親なんだろう。 母親失格だ。 時間を戻せたら……絶対に颯を離さないのに。 「嫌いで結構、どこへでも好きなところに行きなさい、さよなら」 最後に投げつけた言葉がいつまでも百合子の耳を離れない。 颯が行方不明になることが分かっていれば、絶対にさよならなんて言わなかったのに。 姑がドアを開けるまで百合子は泣きながら玄関にうずくまり、祈っていた。 「百合子ちゃん、いつまで泣いていてもらちがあかないでしょ。ご飯食べなよ。大丈夫、きっと戻ってくるって」 姑はバスタオルを差し出した。百合子は何も言えずにうなずいて、それを受け取った。 姑とはあまり親しくなかった。 舅が百合子を気に入っていないことを知っていたので、舅の陰でいつも静かにしている姑とも積極的に関わろうとしなかったのだ。
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