雪の事実

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ーその医者の伏し目がちな態度を見た瞬間、俺の中で何かが切れたような音がした。 「……揃っていますか。どうぞ中へ」 まだ、一縷の望みはある。 だが俺の首は、まるで針金が入ったように下を向いて動かない。 リノリウムの床の白が、目に染みた。 医者は、業務用の哀れむような顔で雪乃の体を触る。 だが、この時点で結果はわかっていた。 ……心電図が、一直線を示している。 要は確認作業なのだろう。慣れたような手つきで雪乃の瞳孔を調べ、時計を見た。 やめてくれ 「十六時四分」 やめてくれ 「ご臨終です」 ーここで発狂せずにいられたのは、俺の体が宙に浮いていたからだろう。 父親に殴られたのだのわかるのは、俺が手術器具などに飛び込んだ後だった。 ほおの痛みより先に、耳朶に残る金属音のほうが先に到達した。 俺はただその事実を受け入れられずに、抜け殻の如く虚空に焦点を置く。 すでに、涙は出てこなかった。 その後、雪乃の父親はなにも言わずに立ち去った。 その他の看護師にも全て席を外してもらい、残されたのは俺と雪乃の母親と、深妙な顔の医者だけだった。 「力は尽くしました。ですが、頭からの落下で……」 母親は、ただただ涙を流した。その嗚咽だけがむなしく響く。 それから少しすると、ほんの少しだけ余裕ができた母親は、俺に語りかけた。 「……雪乃は、おっちょこちょいなところがあったから。……だから、だからきっとあなたに非はないの。 お父さんもわかってるはずだから……許してね」 自分のことよりも、俺の胸に空いた穴の方を心配してくれる雪乃の母。 だが、その程度の優しさ、許しでこの穴は埋められなかった。 後から無限に等しく湧き出る負の感情に押しつぶされそうになる。 ……いや、とっくに押しつぶされているのかもしれない。 人間は、そこまで強くはできていなかった。 俺の中の大切な線。動脈のような大切な線。 一度切れたら、命ごと持って行かれそうな線はついさっき、俺の中で切れてしまった。 血は、出てこない。
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