第1章

11/33
前へ
/33ページ
次へ
茉莉花は震える手で慎の顔から眼鏡を滑らせ落とす。 間近で顔を見、愛しくてならない者を撫でるように指先で彼の顔に触れてきた。 小さく笑み、声にならない声で、唇が言葉を紡ぐ。 慎さん、と。 愛する者が愛する人の名を呼ぶ。甘美な瞬間だ。 彼女の手を強く握った。握り返す手。手の甲に、指先に、何度も口付けた。 「次郎が……」 名を出すのも苦しい。 「彼が出征する前に……見舞いに来てくれた。君の所へ何度も便りを送っても返送されたから、次郎だけが頼みの綱だった。必ず生きて、病気を治して出てくるから、待っていて欲しい、と……」 「知らない、知らなかったの、私……」 彼女は何度も首を横に振った、いやいやと駄々とこねるように。 「私、出征して……その先で死んでしまったんだとばかり思ってた……」 死んでなどいない! 私はここにこうしているんだ! 慎は彼女の身体を抱き竦めた、自らの存在を伝えるように。 ――何て華奢なんだ、細い腰、か弱い肩、でも胸を押し返す乳房は豊かに柔らかく彼を包む。 彼女も必死にしがみつく。 「会いたかったのよ、私。ずっと……」 彼女は、私の帰りを待ってくれていた! 辱めてやろう、と立ち上がった慎の負の感情は、温かく慕わしい温もりに溶けて消えて行く。 心の内を満たすものは悦びの感情だ、ひたひたと押し寄せるもの、これこそ真実の愛だ。
/33ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加