第1章

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あと数年は安泰だ。しかし、その後はどうなる。続けて雇われるにせよ、また新たな勤め先を探すにせよ、妻子と共にどこまで行けるだろう。 その間、青山の家は? 自分も妻も、肉親の縁が薄い。後事を託す相手探しに苦労する。ならば、家と土地共々、手放すか? それは――できない。 父が残してくれた家だ、私の代で終わらせてはならない。 子が産まれ、成長し、やんちゃな痕跡をあちこちに宿す愛しい家は、息子が大成した暁には彼の拠り所になっている。あの家は、政のために残さなくては。 それに、青山だけではない。房江の『実家』である奥多摩にも家がある。年に一,二度、風を通すためだけに通い続ける房江の帰る場所をなくしていいわけがない。 どうしたものか。 いつもは以上に思索に耽る慎にとって、馴染んだ飛行機内の空間は、よそ行きの異空間に迷い込んだようで窮屈だった。 私は思った以上に白鳳を愛し、離れがたく思っていた――。 自分一人の力ではどうすることもできない人事にまつわること、決定事項は覆らない。 しかし、残る者と残れないものとの境目はどこにある。 武君が残れて、私がこぼれたのは何故だ。 出張が始まった頃に自問したのと同じ問いが、慎を苛む。 深酒でも食らって、一晩寝て、忘れられるようなことではない。どす黒い嫉妬が自分の内にある。これは大切なものを壊す感情だ。わかっていて収められたら苦労はしない。 この日は帰宅してすぐには妻に本採用の件を話せなかった。翌朝も次の日もまた次の日も。つまらない雑事を理由にして、妻へ知らせるのを1日、あと1日と先延ばしにした。
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