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慎がやっと房江に転勤話ができたのは正式な辞令が出る直前だった。
「しばらく帰りが遅くなる」と妻に伝えた。
帰宅して着替えを受け取りながらの話の流れを装う。
「お忙しいんですか?」と問われ、「実は」と転勤の件をした。
「まあ……」
房江は差し出した手を止め、一瞬絶句する。
「いつお話が出るものかと待っていましたけど……随分と話されるのを先延ばしにしたんですね」
そして長々とため息をついた。
妻の言い分は当然のことだ。
政は先頃小学校に入学した。そして、今もって原因不明の発熱は続いていた。小学校という環境の変化が不調をもたらしていた。
家族は離ればなれになってはならない。慎も房江も意見は一致している。しかし、子供のこととなると話は変わる。
「最近、やっと落ち着いたようなんです。転校すると、また、ぶりかえすでしょう?」
房江は子供部屋の方を見ながら言う。
「そちらには、近くにお医者さんはいらっしゃるのかしら」
「なくはないが、ここほどではないだろう、調べておく」
「それより」もっと憂鬱そうに妻は言う。
「政がどう思うか。近頃、書道の先生が変わったんです。あちらもあの子のことをかってくれているし、政も懐いています」
「政にとって書道が特別なのはわかっているよ、しかし」
「特別なんてもんじゃありません、もう生きる全てと言っても過言ではないでしょう。もちろん、九州にも先生はいますし、頼めば紹介もして下さるわ。けれど……政は自分の身体や友達より、書道の先生と今の環境を奪われる方が辛いでしょう」
「子が親に左右されるのはある意味当然のことだ」
「あなたに政の嘆きを引き受ける覚悟はありますか?」
慎は言葉に詰まった。
息子のために何でもしてやろうと言える余裕を、今の自分は持ち合わせていない。
来い、と慎が一言命ずれば、妻は粛々と従う。それをしない夫を諭している。
この日、うやむやに終わった話し合いは、暗に妻子との別居を示唆していた。
今回が最後、次飛ぶ時はしばらく東京とはおさらばという帰りの便で、慎はまたも忘れ物をした。
薄い封筒には、辞令が入っていた。
忘れ物が届きました、と守衛から電話連絡を受けたのは終業時刻をとうに過ぎていた頃だった。
またやってしまったのか。
本を片付ける手を止めて慎はため息をついた。
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