アジサイ

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いつものように、きっちりと後ろに撫で付けたロマンスグレーは、何故かいつも以上に、父を老いて見せていた。彼もまた、コウと同じように、苦しみをかかえてきた。 「うちに来なければ、死なずに済んだのかもしれない。そう、思ったから、植えたアジサイは全部抜いた」 その時、記憶の引き出しが再びカタカタと鳴った。根っこごと散らばった紫陽花を手にした幼いコウに、父が発した一言。 ーー『(コウ)は花が好きか?』 「蓉子(ようこ)が亡くなって、わたしは仕事に逃げた。何かしていないと、何もできなくなってしまいそうで、怖かった。まだ幼いお前を放って。娘にさえ、甘えていたんだ」 皺の多い指で、トントンとテーブルを叩く。 「笑った時に笑窪ができるだろう。あれを見ると、蓉子(ようこ)を思い出して…まともに顔を見られなかった。お義父さんには、本当に世話をかけたと思う」 味の薄いコーヒーをすする淳司(あつし)の手元を見つめる。確かに、写真の中の母には笑窪があった。だけど、笑窪一つで父がそんなことを思っていたなんて、想像すらしていなかった。傷ついた娘は父を避け、会話を()め、益々知りうる機会を失っていった。 「ダメダメ親子だよ」 そう言うと、淳司(あつし)は苦い笑みを含ませて、視線を落とした。想像だけでは、いかんともしがたいことが、たくさんある。想像し過ぎて、不都合な所だけ脚色してしまうことも、ままある。本当のところなんて、誰にも分からない。だけど、確かなことは、記憶の中の母はいつも笑っていて、キラキラした鱗粉をふりまいていたということ。 わたしは、信じたい真実を選ぶ。 コウは、手の中の筆ペンを握りしめて父を見た。 「お父さん。これからは、話をしよう。忙しいかもしれないけど」 淳司(あつし)は視線を上げて、大きな目でじっと娘の顔を見返した。表情を変えないまま、小さく頷く。 「その通りだ」 「たまには、ご飯、一緒に食べよう」 「そうだな」 「わたし、作るし」 「作れるのか?」 「習うんだよ、これから高橋さんに」 「そうか。娘の手料理なんて、蓉子(ようこ)に羨ましがられるな」 淳司(あつし)は声を上げて笑った。眉を下げ、目尻に皺を作って、こんな風に笑うんだ、と思った。そんなことさえ、知らなかった。 「父親らしいことを全くしないうちに、追い越されてしまったな」 空になった紙コップを持ったまま、頬杖をついて窓の外の霊園の方を見ている父に告げる。 「そんなことないよ」 先程から、瞼の裏に見えている、セピア色の映像。 ーー(コウ)は花が好きか? ーーうん! ーーそうか。だったら、庭を花でいっぱいにしよう、(コウ)がいつでも寂しくないように。 不器用で分かりづらい、精一杯の愛情を、自分はずっと受け続けていたのだ。 何年分かの足りないところは、これから補っていけばいい。だって、これまでも、これからも、親子なのだから。 「あ」 思い出したように、コウは声を上げた。 「お見合い、お断りするから」 「…何故だ」 淳司(あつし)は表情を動かさず、グッと目だけに力を入れた。化粧を施した歌舞伎役者に似ていて、知らない人が見たら口をつぐんでしまうほど迫力がある。 「いい人でもいるのか。だったら、紹介しなさい」 いい人…とっさに銀色の彼を思い浮かべてしまったけど、いやいや。さくらが色々言うから、変に意識してしまうんだ。確かにではあるけど。 「あのね。誰にいわれたか知らないけど、今、そんな時代じゃないから。恋人を親の検問にかけることもないし、三十歳でも四十歳でも独身でバリバリやってる人、ザラにいるんだから」 カズラに散々、世間知らずの烙印を押されまくっているが、自分以上の世間知らずがここにいた。社長業以外のことには、本当に無頓着無関心なのだろう。腕を組んで考え込む父を、真面目なんだなぁと横目に見つつ、窓の外に視線を移した。 その先にあったものーー東の空に、うっすらとかかった虹の橋。 とっさに、母だ、と思った。ちょうど、母の墓石の上に見えていたから。頑張ったね、と声が聞こえた気がした。 うん、勇気を出して良かった。ありがとう、お母さん。 埃で真っ白だった心の空間は綺麗に磨かれ、新品のような色合いに戻っていた。ずっと知らなかった元の色。それは、何色だったろうか。 その晩、久しぶりに、あの紅い花の夢を見た。
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