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ー2ー
スーツ姿の人々がひしめきあい、初めましての挨拶が飛び交う。ノイズのようなおしゃべりが満ちる中、テーブルに並んだフィンガーフードは、誰にも見向きもされずただ乾いていくばかりで、コウは固くなりかけた塩味の濃い何かのパテを一つつまみ上げ、口の中に放りこんだ。
この日こそは、出席しなさい。
そう強めに父に言われ、渋々この場に居る。出会ったばかりの人と、時にジョークを交えながら会話を発展させ終わらせていく、こういうことが苦手で、特に、輪をかけてこういう場が苦手で、今まで数える程しか参加したことがない。会場に設置されたステージ上の垂れ幕を見るとはなしに見つめていると、どこぞの部長とやらが「お誕生日とお聞きしました。おめでとうございます」と話し掛けてきた。誰に聞いたんだ、と思いつつ、咄嗟に笑顔を作りながら、白々しくも手にしたグラスをカチンと合わせる。途端、こめかみの辺りに、キィンとした痛みが走った。
苦手なのには理由がある。目の前の男性の口元に立ち込め始めた、黒い靄。それは、彼の腹の内。昔からコウには、それが見えた。悪意のないものなら特に実害はないのだが、可視化された邪な本心は、黒い靄となって体にまとわりつき、時に痛みという形でそれを伝えた。幼い頃は、誰にでもある能力だと思っていたが、どうやら違ったらしい。当時、よくコウの自宅を訪れていた会社の白髪の上役たちは、初めは夢を見ているのだとあしらい、やがておかしなことを言うなと咎め、終いには気狂いだと、十三歳の時、入院を余儀なくされた。父の代になって上場企業へとのし上がったモモカ製紙の肩書きある彼等にとって、清潔な表面の裏側にあるカビだらけの本音をぶちまけられることは、非常に不都合なことだったから。
無機質な壁に四方を囲まれた、小さな窓がひとつあるだけの六畳の個室は、本気でコウの正気を失わせかけた。音がない、風がない。目を開けても閉じても、何もない。未成年である自分は、拒否することも敵わない。そうして、やっと気づいた。この能力は異常なのだ、異常は罪なのだと。そんな不自由の中、夢の内だけは自由で。小さな紅い花弁が渦巻き舞う夢を、よくみていた。それは、ずっとずっと幼い頃からたまにみる夢。シャワーのように降り注ぐそれを全身に浴びながら、現実の代替のように、コウはいつも泣いていた。誰にも見られぬまま。
ようやく退院できて家に帰っても、暫く熟睡はできなかった。そして、浅い眠りから目を覚ますと、そこには大抵、カズラを抱いた母方の祖父・佐田祐吉がいた。祐吉は、寝汗でグシャグシャになったコウの額の際を、桐の箪笥の匂いがプンプンする手拭いで、丁寧に優しく拭いてくれた。祖父だけが、味方だった。祖父だけが、全て受け入れてくれた。いや、もしかしたら彼にも、同じように見えていたのかもしれない。今となっては、確かめようの無いことなのだが。カズラが喋るようになったのは、コウが中学を卒業して祐吉が亡くなってからすぐのこと。さすがに最初は戸惑ったけど、共に過ごしていた十三年は伊達じゃなく、慣れるのにそれほど時間はかからなかった。
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