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高橋さんは、思いを馳せるように目を細めて呟いた。
「彼女がね、一番好きだった花なのよ」
花と一緒にいなくなってしまった…。六月は、母の祥月命日だ。
「蓉子ちゃんのお母様…コウさんのおばあ様が、昔、書道教室を開かれていたのは知ってる?」
「いいえ。わたしが生まれる前に亡くなってますし」
「蓉子ちゃんは高校卒業後、そこを手伝っていて、仕入れなんかをする際に、販売部で修行なさってた社長と出会ったらしいわ」
「へぇ…」
父が恋愛結婚だったとは、意外だった。二人の馴れ初めなんて、一生知ることはないと思っていたので、特別な秘密を知ってしまったような、ちょっと後ろめたさを感じてしまう。
「あの八重藤と紫陽花はね、社長が植えたものなんですって」
「父がですか」
「そう。ある日突然、『蓉子は何の花が好きだ?』って聞かれて、何のことだろうと思ってたら、しばらくしてプロポーズされたらしいの。花をたくさん植えたから、うちに来ても寂しくないぞって。おかしいわよね。でも、不器用で真っ直ぐな社長らしいって、蓉子ちゃん嬉しそうだった」
ーーコウは花が好きか?
いつのことだろう。自分も、父にそう聞かれたことがあることを思い出した。
『コウは花が好きか?』
『そうか、だったら…』
だったら…何だっけ?
思い出せそうで、思い出せない。二十歳になってから、そういうの、多いな。ちょっとやそっとじゃ答えは出てこないとみて、ひとまずこの件は置いておくことにする。
「ところで、高橋さんの話したいことって、何ですか?」
話の矛先を向けると、彼女は紅茶のカップを置いて人差し指をピンと立てた。
「あ、そうそう。さっき、うちの長男が受験って言ったんだけど、実は、次男も受験でね」
「ダブル受験ですか。大変ですね」
「そうなの。わたしも五十歳に足踏み入れちゃったし、仕事しながら受験生二人面倒みるのはちょっときついな、と思って…三月いっぱいで辞めさせてもらうことになったわ」
びっくりして、オムライスを口に入れたまま、フリーズしてしまった。彼女のご飯をいつまで食べられるだろう、なんて呑気に考えていたのに、自分が独立するより先に卒業してしまうなんて。
「まだ半年以上先のことだけど、家政婦探すのって、相性もあるから大変でしょう」
そうか。来年からは新しい人の作るご飯が、家庭の味になるのか。最早、コウにとって母の味であるオムライスも、カレーも、味噌汁も、もう食べられなくなるのか。そう考えると全てが貴重に思えて、すごく焦った。
「高橋さん」
口の中のものを、首をすくめて飲み込む。
「今度、料理を教えてもらえませんか」
一人きりの食事を救ってくれていたのは、いつだって愛情深いこの味だったから。
「ちょっと火を使うのは苦手だし、不器用だから上手くできるか分かんないんだけど…もちろん、お代は支払います」
「嬉しい!」
高橋さんは勢い良く席を立つと、テーブル越しに大きく身を寄せ、コウは思わずのけぞった。
「喜んで!よ。わたし、娘と台所に立つのが夢だったの!息子たちは、ちっとも興味示さないから」
元演劇部らしく、両手を広げて天を仰ぎ、夢って叶うのね、と呟く。教育実習が終わったら、今度は調理実習。さくらには悪いが、益々、恋なんてしてる暇はない。
「月に一回かしら?ちゃんとレシピ作ってこなきゃ」
「いえ、そんな大層な感じじゃなくても」
「何、言ってるの。レシピなきゃ、後々再現できないでしょ。包丁は握れる?」
「はい、それくらいは…」
しかし、数える程である。我ながらポンコツだと思う。
「社長も喜ばれるわね、これから娘の手料理が食べられるなんて」
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