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喜色満面な様子でそう言われ、反射的に口をつぐんだ。想像したこともない光景に、言葉を選ぶ。
「父は…」
言い淀み、大きな目をひとつ、しばたかせた。
「食べないと思いますよ」
いつ食事してるのか、何を食べているのかも知らない。家族だけど、周囲の人物の中で、一番詳細を知らない。高橋さんは、それまでの雄弁さが嘘だったかのように黙りこんで、視線をさまよわせた。しばらく頬に手を当てたり、顎に拳を当てたりしながら迷っているようだったが、意を決したように、クッとエプロンの裾を握って、コウの赤茶の瞳を見据えた。
「ずっと、言おうかどうか迷ってたんだけど。あまり良い思い出じゃないだろうし、家族のことに首突っ込むのも、と思って」
前振りの段階で分かった。彼女が言わんとしている思い出の内容が。そういえば退院時、仕事中の祖父に代わって病院に迎えにきてくれたのは、高橋さんだった。
「もうこの際だから言っちゃうとね。あのとき、社長は反対してたの。コウさんの入院に」
「ーー反対?」
「そう。それはもう、必死に」
父が、入院を反対してた?容認、あるいは黙認してたんじゃなかったのか。あやふやな中の、しっかりとした記憶が、脳に混乱をきたす。確かに自分は、病院へ向かう車中、付き添いの会社の役員に言われたのだ。社長の許可は取ってあります、と。
「だけど、その時いた古参のじい様達が、その…世間体的なものを気にして、入院にこだわってて。なにしろモモカ製紙の今日があるのは、これまで支えてきたその人たちのお陰でもあるわけだから、社長もだいぶ手をこまねいていて。説得するために一度丸め込まれたふりをして、お祖父様が医師と話をして退院手続きをして、わたしがこっそり迎えに行ったって訳」
待って、と言いたい。
続きは待って。
何年も正解だと思って疑わなかったものが、こんな一瞬で『違う』と言われ、思考と感情がついていかない。高橋さんは容赦なく続ける。
「最後、『大事なものを見誤るくらいなら、捨ててやる』って、古参のじい様たちの前で声を荒げてね。あんな感情的な社長は、後にも先にあれきりよ。蓉子ちゃんとお別れした時も、涙ひとつこぼさず、気丈にふるまってらしたんだから」
それは覚えている。父は、母の葬式の時、泣かなかった。イヤだと泣きわめく娘を抱き締めて、感情の知れない表情で、来客にひたすら頭を下げていた。きっとそれも、非情な振る舞いとして、コウの記憶に刻まれてしまったのだろう。
「ごめんね、辛いこと思い出させて」
「いいえ…ありがとうございます…」
正直、心のどこかで、ずっと思っていた。いつまで恨んでいればいいのだろう、と。怒りを持続させるのは、労力が要る。かといって、これまで辛い思いをしてきた自分自身を否定するつもりもない。それも事実なのだから。ただ、真実の断片を知ってしまった以上、先に進まなければならない。今までずっと、避けていたこと。肉親だからと、甘えていたこと。
話を、しなければ。父と。何があったのか、彼がどう思っていたのか。だけど…。
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