第2章 湖水

16/20
前へ
/116ページ
次へ
 あの大揺れのあと,海から少し内陸にあった優志の住む地区にも,海水が流れ込んできた。両親と連絡がつかず,近所の人や地区の消防団の人と一緒に非難しようと,優志は弟の手を引いて家を出た。町中に流れ込んだ海水は優志の膝上まであり,地形のせいか,ちょうど引き始めた水の流れは強かった。 優志は町が海水で満たされた光景に恐怖感でいっぱいだったが,周囲に行動を共にする大人がいたし,何より弟を守らなければならないと気が張っていた。 人々は,高台を目指して住宅街の道を歩いていた。お年寄りと小学校低学年の子供が多かった。優志は弟の手をきつく握りしめ,水面を流れてくる様々な物から弟を守るように歩いた。 ある地点から,道の片側の住宅が途切れた。そこには比較的深い用水路があるはずだったが,泥に濁った海水のせいでどこまでが路肩なのか見えなかった。角材や資材がその上を流れていた。  優志は細心の注意を払って歩いていた。あまりの恐怖にほとんど口を開くことのなかった弟は,時折どうしようもく恐くなって優志の背中に抱きつくことがあった。その度に優志は力強い口調で,もうすぐ安全な場所に着くからと諭し,弟に歩くことを促すのだった。 突然前方を行く人々から叫び声があがった。同時に彼らは道の真ん中を開けるかのように左右に別れて移動した。何本もの太い角材が流れてきたのが見えた。人々の急な動きに対応できず,直前を歩いていた何人かの大人によって優志兄弟は道路端に押しやられた。優志は用水路に落ちてはまずいと踏ん張ったが,弟は押し寄ってくる大人を避けてかなり路肩方面に後ずさっていた。  ふいに弟の手を握った優志の手が,ぐいっと用水路のほうに引っ張られ,一瞬のうちに優志は体勢を崩した。弟が流れる水に肩まで沈んでいた。目は恐怖で見開かれ,金切り声をあげていた。足を踏ん張る拠り所がなく,優志も用水路に落ちていった。水中で腕を伸ばしきっていたが,二人は決して手を離さなかった。 足が着きそうで着かない。海水の下にはものすごく速い用水路の流れがあった。二人はなすすべもなく下流に流されていった。道路上からは二人を見つけた人々が悲鳴や怒声をあげていた。
/116ページ

最初のコメントを投稿しよう!

285人が本棚に入れています
本棚に追加