第2章 湖水

17/20
前へ
/116ページ
次へ
 優志は弟の腕を自分のほうに引き寄せようとした。そのとき,前方を流れていた弟に衝撃が生じ,弟は自分の手を緩めてしまった。巨大な流木にぶつかったのだった。優志がどんなに弟の手を引き留めようとしても,弟の手はするすると優志の手を離れ,再び水中で触れることはなかった。  そのあとの優志の記憶は途絶えている。気がつくと優志と弟は避難所の緊急救護室に横たわっていた。優志は道路上の大人たちに,弟は消防団の人たちに助けられたと後で聞かされた。流された距離も思ったほどではなく,水もほとんど飲んでいなかった。  多くの犠牲者があったことを知り,優志は胸が張り裂けそうな思いだった。そんな中で自分たちを助けてくれた人たちに,優志は心から感謝した。弟は避難所で両親に会えてひとしきり泣きじゃくった後,徐々に落ち着いていった。  その後長い間,優志は弟の手が自分の手を離れていくあの感覚が忘れられなかった。このことは誰にも話したことがなかった。 ―自分は弟を助けられなかった…。自分ではどうにもできなかった…  ブライスが水中に落ちてからしばらく戻ってこなかったとき,優志はあの時の感覚を鮮明に思い出していたのだった。 「…辛いことを思い出させてしまって,本当に悪かった。申し訳ない,ユウシ」  優志が自分の体験を語り終えたとき,ブライスは優志の心の痛みをひりひりと感じて,謝罪の言葉を漏らした。優志は目の前のテーブルに視線を合わせたままだった。ちょっと間があって,ブライスが優志に身体を向けて座り直した。 「…ユウシ,君が体験をしたことを教えてくれて嬉しいよ。とても光栄に思う。君は命を落とす危険があったのに,…こうして生きて俺の前にいる。君を助けた人たちに,俺も感謝したい」  優志は思いがけない言葉にブライスを振り返り,その真摯な表情を認めた。彼が本気で言ったのだと分かった。 「…それに今日,湖で,君は俺を見つけた。諦めずに水中に戻ってきて,俺を見つけて離さなかったんだよ」 ―そうだ…ブライスを見つけて離さなかった… 「…そうだね,俺はブライスを見つけて捕まえた。ブライスは溺れてたわけじゃないけどさ…」  優志は,心が少し軽くなって笑うことができた。 「ありがとう,ブライス」 「こちらこそ,ありがとう,ユウシ」
/116ページ

最初のコメントを投稿しよう!

285人が本棚に入れています
本棚に追加