第2章 湖水

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 優志は遼と同室だった。部屋に入っていくとブライスもいた。大学に勤める彼の母親が,日本人学生の非公式アドバイザーとして,ブライスが寮へ出入りできるよう許可をもらっていた。英語に不安のある遼を思ってのことだった。  シンプルで機能的な,つまり何の趣もない部屋だった。優志と遼はベッドに座り込み,ブライスはいすに座っていた。遼のたってのお願いで,毎日午後の講座が終わった頃,寮で復習するのに手伝ってもらうことにした。遼は心底ほっとしたようだった。 「俺たちにこんなに時間を使うと,ブライスの研究が進まなくなるね」 「ユウシ,夏休みなんだから,そんなに気を張ってないよ。午前中に文献を読んだり,大学のコンピュータにつないでデータを眺めたり,かな」  ひとしきりブライスの研究についての話題で盛り上がった。優志はブライスの話を聞きながら。自分がほんの一部しか知らない分野の,別の部分での新開発について知識を得ることに興奮を覚えた。 ―自分はまだほんの一握りの先人の業績を追っているだけだけど,この人は先人を乗り越える新たなものを開発しようとしているんだ。この人の頭の中に,進むべき宇宙が存在しているんだ…  ブライスが内包する宇宙を,自分は少しでも理解しているだろうか,そもそも彼を理解する権利を持っているだろうかと,優志は自問した。 唐突に,研究室でブライスと共に研究する自分の姿が浮かんできた。何て身の程知らずな,とその妄想を打ち消そうとして,でもなかなか打ち消すことができない自分に優志は手を焼いた。 「…で,ユウシはどう思う?」 「え,…あの,少し文献を読まないと判断できないかな…」 ブライスと遼はきょとんとした表情を作り,それから二人で顔を見合わせて爆笑した。 「腹いてぇ…。優志,どの文献読むんだよ。夕食をどうしようかっていう話なんだぜ」  優志は恥ずかしさにベッドの上で膝を抱えた。 「あぁ,ユウシは研究熱心すぎて,自分の世界に入っていたんだな…」  ブライスが慈愛に満ちた目で優志を見つめた。彼の母親に似たまなざしだった。
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