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「菫の気持ちも解んなくはないけどさ」
博子がおずおずと切り出す。
「瑠璃ちゃんは、新しい世界を見たんじゃないのかな」
新しい世界?
「菫は二年間、外で働いたわけじゃん?
子供たちと触れ合ったのも、その親御さんと関わったのも、前田くんと出会ったのも外。
でも瑠璃ちゃんの世界は、ずっと店だったでしょ?
職場も恋人も全部。
……瑠璃ちゃん、店を継ぐ気持ちはあったと思うよ。
だけど、未知の世界を見せてくれる人に出会って、気持ちを抑えられなくなったんじゃないかな」
頬張った木苺のムースがやたらと酸っぱい。
顔を顰める私に、博子は呟く。
「……恋は堕ちるもんだって言うしね」
家を出された瑠璃は、今どうしているのだろう。
幸せな生活を送っているのだろうか。
征さんと付き合い始めたことで、店を継ぐのは当然、という空気になったのは事実。
彼女にも自覚はあっただろうし、何より楽しげに働く姉からは葛藤など微塵も感じられなかった。
あの人に少しでも周りを見る目があったなら……私だって違ったかもしれない。
初めて好きになった人が姉の恋人になり、仲睦まじい姿をいつも目にしなければならなかった苦痛も。
新たな恋をして、やっと征さんをニュートラルな気持ちで見ることが出来るようになった時になって、私が欲しくても手に入れられなかった彼を簡単に捨てたことへの怒りも。
深く傷ついた征さんに感じたやるせなさも。
お腹の子の父親が、定職を持たないフリーターでいかにも遊び慣れていそうな男性だった幻滅感も。
姉は何も知らないのだ。
姉の世界は店だけだったかもしれないけれど、私よりは遥かに自由気ままに、全てに恵まれて生きてきた。
まだ私には、姉を理解し、許すことはできそうになかった。
「あー、恋に堕ちたいわ」
綾がぼやき、博子がなじる。
「あんた彼氏いるじゃんか」
「なんか最近、なあなあっていうか、倦怠期っていうか。
デートもエッチも義務みたいになっちゃってて。
あああ、ときめきたいっ!」
「はいはい」
シビアな博子は「安物買いだけはしない」と、経済的にしっかりした人を狙っていて、安易に男に靡かない。
対して綾は鮮やかな恋愛遍歴の持ち主で、合コン大好きな肉食系女子だ。
ときめき、か。
そうぼんやり思った私の脳裏に、桜舞う宙に手を伸ばし微笑する黒尽くめの姿が蘇った。
……まさか
私は頭を振って黒い残像を追い出した。
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