始まり

1/2
105人が本棚に入れています
本棚に追加
/137ページ

始まり

海から吹き込む潮風に、鱗のようにうねる水面(みなも)、陽を反射して虹色に発光する川。 そこに架けられた、真新しくモダンな木橋。 橋の袂には、誰が建てたのか朱塗りの小さな鳥居と、繊細に葉先を幾つも揺らす垂れ柳が鎮座している。 か細いその根元から川辺へと続く短い石造りの階段の先に、ひっそりと、大正(たいせい)メトロはある。 いつものように軽い足取りで石段を下り、年季の入ったガラスの引き戸を重く開けると、微かに甘い小豆の匂いと壁に染み付いた伽羅(きゃら)の香りが、ふぅわり鼻腔をくすぐった。 鐘里(しゅり)は以前、この店の常連だった。 御菓子司・大正(たいせい)メトロは、大きな標本箱程度のショーケースに、お萩が幾列か整然と並んでいるだけの、小さな和菓子屋である。 人の気配が感じられない店内は、ポツリと灯った蛍光灯が天井を薄暗く照らし、客を寄せつけぬ振り子時計のカチコチカチコチ…という音だけが、孤独に時を刻んでいる。 鐘里(しゅり)は、ショーケースの裏側に回って、お萩をひとつ取り出した。 この店の菓子は、とても美しく美味しい。 丁寧に練られた餡子には、作り手の真心を感じる。 しかし、彼女が常連だったのは、何も菓子の旨さに魅かれていたから、だけではない。 「何をしている」 まるで無人だった空間に、男の声が響き渡った。 それは、脳髄の芯の芯まで直接響いてくるような深みがあって、鐘里(しゅり)は全身がびりりと痺れるのを感じた。 「お八つにでもするつもりか」 烏の濡れ羽のような、艶のある黒髪。 黒曜石とみまごう、深淵な色の瞳。 女性にもひけをとらぬ白肌に、薄い唇。 垂れた目元の右側には、愛しい愛しい涙黒子。 「ただいま、(あらた)さん」 しかし彼は女性を、ましてや妻を見るような優しいものではない目付きで、鐘里(しゅり)の手元をじろりとねめつけた。 「勝手に触るんじゃない」 黒い袷の着物の袖に、互い違いに両手を突っ込んだまま、身じろぎもせず、言う。 感情の見えない視線、有無を謂わせぬ口調。 自分のことを見ようともしない夫に口を尖らせ、渋々お萩をショーケースの上に置く。 そして、拗ねた口ぶりで問うた。 「わたしとお萩、どっちが大事なのよ」 「馬鹿なことを聞くな」 彼は綿雲でも掴むかのようにお萩を両手で包むと、形が崩れないよう細心の注意を払いつつ、時間をかけてそっと元の場所に戻し、顔も上げずにのたまった。 「お萩に決まっている」 そうだろう。 そう来るだろう。 承知していた、この返答は。 だって結婚以来、ずっとこんな調子なのだから。 「わたし、妻なのに…」 訴える鐘里(しゅり)に、にべもなく背を向け、それ以上何も語らず場を後にする。 連日の言い争いは、喧嘩にもならぬ。 餡子にすら負けてしまう程、相手にされていない。 一方的な想いで彼の妻になった。 共に暮らせば、変わるかと思っていた。 だけど、そんな簡単に人は変わらない。 結婚したのに、ずっとずっと片思いのまんまだ。 悔し涙がうっすらと目尻を濡らし、鐘里(しゅり)はぶるぶると頭を振った。 もう、ご飯なんか作ってあげない。 洗濯なんて、してやんない。 大好きだなんて、思ってやんない! 「(あらた)さんなんか、(あらた)さんなんか、お萩の具になっちまえ!」 そう黒い背中に精一杯の罵声を浴びせかけ、再び、陽気な光差す川辺へと勢いよく飛び出した。 古いガラスの引き戸が、割れんばかりに高く音をたてて閉まった。
/137ページ

最初のコメントを投稿しよう!