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初めて聞く彼の怒声に、鐘里は思わず飛び上がった。
右目の下の涙黒子が、ひくひくと震えている
「丑三ツ時に、雨の中、石段を使う奴があるか!」
ウシミツドキ?
雨の日石段使っちゃいけないの?
えぇ?何それ?
「少しは危機管理能力を養え!」
言っている意味が分からない。
あまりにも分からな過ぎて、一瞬、何故こんなに怒られているんだろう、と考えた。
…あれ、でも待てよ。
そしてフと、我に返った。
怒り心頭の様子で見下ろしてくる新を見上げる。
そもそも彼が、自分に何も言わず、突然居なくなるからいけないんじゃないのか。
一緒に住んでいるんだし、コミュニケーションはとれていないが、一応夫婦なのだ。
心配するでしょう。
そりゃ、探すでしょう?
関係なくなんか、ないんだからね!!
思考回路が繋がると、たちまち鐘里のムカッ腹ポイントに、猛烈な勢いでスイッチが入った。
「そんなに怒鳴らなくてもいいでしょ!」
がばりと立ち上がる。
水を吸って重くなった着物が、泥と共に体に張り付き、黒髪から水滴がパタパタと跳ねた。
「起きたら独りぼっちで、不安だったの!」
「だからと言って、ずぶ濡れで夜中に独り出歩くなど、非常識にも程があるだろう!」
「そもそも、勝手にいなくなる方が悪いんじゃない!」
「仕事だ、何が悪い」
「悪いわよ!何かあったんじゃないかって、すごくすごく心配したんだから…」
バカッ!
安心感とか悔しさとか腹立たしさとか、色んなごちゃごちゃした気持ちが、ボタボタ涙と共に流れ出る。
鼻をすすりながらも、噛みつかんばかりに睨みつけてくる妻を見て、新は深く息をついた。
「なぁんだ。この紙っこ、旦那のお手つきでやんすか」
「妙な言い方をするな。それに鐘里は人間だ、手を出すな」
面白くなさそうに頭の皿を撫でる河童を一睨みすると、着ていた羽織を脱ぎ、無言で鐘里の頭の上にさらり被せた。
甘くて苦い伽羅の香りに包まれて、だらだらと続いていた嗚咽がピタリと止まる。
現状を把握するまでに少し時間を要した。
これは…これはもしかして…?
まさか、彼が、わたしに?
びっくりし過ぎて、口がアサリのようにパカッと開く。
きっと表情が「なんでなんでなんでなんで」と問うていたのだろう。
「風邪でもひかれたら面倒だ」
取って付けたように彼は言った。
違う、そんな言葉が聞きたいんじゃないんだけど。
「…でも羽織、濡れちゃう」
「構わん」
「わたし、泥もついてる」
「洗えばいい」
言い残して、何時ものように背を向ける。
「あんまりカラツと目を合わせるな。さっさと家に帰れ」
そのまま彼は、たくさんのヒトの気配のする奥の部屋へと姿を消した。
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