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始まり
海から吹き込む潮風に、鱗のようにうねる水面、陽を反射して虹色に発光する川。
そこに架けられた、真新しくモダンな木橋。
橋の袂には、誰が建てたのか朱塗りの小さな鳥居と、繊細に葉先を幾つも揺らす垂れ柳が鎮座している。
か細いその根元から川辺へと続く短い石造りの階段の先に、ひっそりと、大正メトロはある。
いつものように軽い足取りで石段を下り、年季の入ったガラスの引き戸を重く開けると、微かに甘い小豆の匂いと壁に染み付いた伽羅の香りが、ふぅわり鼻腔をくすぐった。
鐘里は以前、この店の常連だった。
御菓子司・大正メトロは、大きな標本箱程度のショーケースに、お萩が幾列か整然と並んでいるだけの、小さな和菓子屋である。
人の気配が感じられない店内は、ポツリと灯った蛍光灯が天井を薄暗く照らし、客を寄せつけぬ振り子時計のカチコチカチコチ…という音だけが、孤独に時を刻んでいる。
鐘里は、ショーケースの裏側に回って、お萩をひとつ取り出した。
この店の菓子は、とても美しく美味しい。
丁寧に練られた餡子には、作り手の真心を感じる。
しかし、彼女が常連だったのは、何も菓子の旨さに魅かれていたから、だけではない。
「何をしている」
まるで無人だった空間に、男の声が響き渡った。
それは、脳髄の芯の芯まで直接響いてくるような深みがあって、鐘里は全身がびりりと痺れるのを感じた。
「お八つにでもするつもりか」
烏の濡れ羽のような、艶のある黒髪。
黒曜石とみまごう、深淵な色の瞳。
女性にもひけをとらぬ白肌に、薄い唇。
垂れた目元の右側には、愛しい愛しい涙黒子。
「ただいま、新さん」
しかし彼は女性を、ましてや妻を見るような優しいものではない目付きで、鐘里の手元をじろりとねめつけた。
「勝手に触るんじゃない」
黒い袷の着物の袖に、互い違いに両手を突っ込んだまま、身じろぎもせず、言う。
感情の見えない視線、有無を謂わせぬ口調。
自分のことを見ようともしない夫に口を尖らせ、渋々お萩をショーケースの上に置く。
そして、拗ねた口ぶりで問うた。
「わたしとお萩、どっちが大事なのよ」
「つまらんことを聞くな」
彼は綿雲でも掴むかのようにお萩を両手で包むと、形が崩れないよう細心の注意を払いつつ、時間をかけてそっと元の場所に戻し、顔も上げずにのたまった。
「…お萩に決まっている」
そうだろう。
そう来るだろう。
承知していた、この返答は。
だって結婚以来、ずっとこんな調子なのだから。
「わたし、妻なのに」
訴える鐘里に、にべもなく背を向け、それ以上何も語らず場を後にする。
連日の言い争いは、喧嘩にもならぬ。
餡子にすら負けてしまう程、相手にされていない。
一方的な想いで彼の妻になった。
共に暮らせば、変わるかと思っていた。
だけど、そんな簡単に人は変わらない。
結婚したのに、ずっとずっと片思いのまんまだ。
悔し涙がうっすらと目尻を濡らし、鐘里はぶるぶると頭を振った。
もう、ご飯なんか作ってあげない。
洗濯なんて、してやんない。
大好きだなんて、思ってやんない!
「新さんなんか、新さんなんか、お萩の具になっちまえ!」
そう黒い背中に精一杯の罵声を浴びせかけ、再び、陽気な光差す川辺へと勢いよく飛び出した。
古いガラスの引き戸が、割れんばかりに高く音をたてて閉まった。
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