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店前にある川の水面は常に揺れ動き、細かい水紋を作り続けている。
凪いでいるところを見たことがない。
通称・鱗川。
牛蒡の頭が飛び出した買い物袋を河原にドサリと置くと、鐘里は膝を抱えて、その隣に座り込んだ。
鱗川は今日も変わらず穏やかにうねり、春先の冷気を含んだ空気は、怒りで火照った体を優しく包む。
心魅かれ、この店に通い続けて何とか仲良くなろうと試みていたあの頃。
美味そうにお萩を食べながら、一方的に喋り続ける鐘里の脇で、ひと言も発さず、彼女が満足して帰っていくのを只待っていた彼。
それから今日で約一年。
「何にも進歩してない」
膝に顔を埋めて「バーカ、バーカ」とぶつくさやっていると。
ガサリ。
足音もヒトの気配もなく、隣に置いていた買い物袋が持ち上げられる音がした。
顔を上げ、横を見上げる。
頭上から陽を浴び、影となったその表情は、怒ってるのか笑っているのか全くわからない。
「鶏が腐る」
言い放つと彼はくるりと踵を返し、買い物袋を下げたまま、自宅兼店舗の入り口に向かった。
どんなに光を浴びても、黒は黒。
何色にも染まらぬ、振り返らない背中を見つめる。
結婚前は、いくら冷たくされても家に帰れば家族がいた。
学校に行けば、友達がいた。
今はひとり。
ワクワクして、待ちきれなかった結婚生活。
愛する夫は、妻を見ようとはしない。
「新さんの、ばか」
「お前ほどじゃない」
「新さんの地獄耳っ」
「商売だからな」
意味不明なことを言って、彼は硝子の引き戸に手をかけた。
そして、静かに戸を開け放ち、吸い込まれるように廊下の奥へと消えていった。
視線の先のぽっかり開け放たれた空間が、選択を迫るようにこちらを見ている。
鐘里はごしごしと目をこすり、両手でパチンと頬を叩いて、折れそうになる心に喝を入れる。
負けない。
友達がしているような普通の恋じゃなくたって、わたしの気持ちは変わらないもの。
腹がたったって、時々寂しくなったって、あの笑顔は嘘じゃなかったもの。
黄昏の訪れを報せる烏が一羽、鳴きながら頭上を旋回している。
サワサワと風が吹いた。
垂れ柳の葉がゆうらり揺れ、鐘里の長い黒髪が鱗川の流れのようにうねって、なびいだ。
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