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ピクリと肩が反応する。
「夜が明けるぞ。今晩はそれで終わりだ」
間違える筈ない。
だってそれは、自分の知ってる、何よりも心地好い音だから。
「新さん!」
振り返った先にいたのは、昼間と同じ黒い袷の着物に紺色の長羽織を身につけた、探し求めていた愛しい夫。
安心して、涙が出そうになった。
拐われたわけじゃ、なかったんだ。
感無量な様子の彼女に対して、妻の存在に気づいているのかいないのか、新は無表情のまま、視線を河童から奥へとスライドさせた。
そして、息を止めんばかりに口を真一文字に引き締め、しばらくじっと鐘里の顔を見た後、吐息まじりの微かな声で言った。
「聞いた声で、まさかとは思ったが」
「旦那、知り合いの紙っこか?」
一丁前に甚平を纏った身体を釈台の向こうから乗り出して、河童がヒュゥと口笛を鳴らした。
「珍しい。動揺してら」
ニヤニヤしながら、佇む二人を交互に見遣る。
その視線を睨み付けて返した新は、改めて濡れ鼠姿の鐘里に目を留め眉をひそめた。
「何故、濡れている」
「なぜって…」
いつもより低いその声の底に、微かな苛立ちの波があることに気づき、鐘里は小さく肩をすぼめた。
「雨が降ってたから」
…という直接的な理由は、どうやら言い訳にはならなかったらしく、「それで?」という表情で先を促され、甲羅に籠る亀のごとく首を引っ込めた。
仕方なく、しどろもどろに経緯を伝える。
「寝室で二時に目が覚めたの。そしたら新さん居ないんだもん。家中ちゃんと探したのよ。どこもかしこも。でも、外履きの草履も置きっぱなしで、扉に鍵もかかってたから、誘拐かも!?とか思っちゃって」
「旦那を拐ったところで、稼げやせんがね」
カラツがフッと笑って茶々を入れる。
「そもそも、鍵がかかってやしたら、拐えやせんで」
「うるさいわね、河童」
「カラツでやんす」
「世の中には密室事件なるものがたくさんあるのよ!」
「そいつぁ、読本の見すぎでやんすな」
「いちいち入ってこないで!」
アカンベーと舌を出してから、新に向き直る。
「だから、お義母さまに聞いてみようと思ったの。それで、いつも通り川辺の石段を上ってたら急に足場が無くなった気がして…」
話を聞いていた夫の眉間に、筆でなぞったような深い皺が寄った。
垂れた両目の端がみるみる内に吊り上がり、端正な顔が般若の形相に変わる。
「この阿保!」
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