第1章

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奥から訪問者を問う声がする。房江だ。 「随分と急にお戻りになったんですね。電報か電話を下されば良かったのに」 足音静かに玄関先へ出てきた彼女は、珍しく驚いた表情で夫を迎えた。 背後に回った彼女は四方山話をしながら夫の肩に手を伸ばした。慎が脱ぐ背広を受け取ろうとする仕草に合わせのことだ。普段なら慎も、後ろを確かめずに肩口から上着を滑らせ落とす。 が、今日は違っていた。 妻の問いにも仕草にも応えなかった。 房江はその場に縫い止められたように動けない。明らかに戸惑っていた。 妻を置き去りにして慎は大股で廊下を行き、縁側を降りて庭を横切って離れの書斎に向かった。 母屋から切り離された庵の壁中は、書架をぐるりと廻らせて蔵書と机が置かれている。塵ひとつなく掃除されているそこは、もうひとつの慎だ。彼の分身であり彼の小宇宙だ。 彼は机脇の棚に無造作に置かれた茶色いガラスの薬瓶を掴み、ズボンのポケットに突っ込んだ。 所在なくついて来てただ見守るだけだった房江の顔が目に見えて変わった。恐れ以外の色はなかった。慎が書斎から出た瞬間、夫妻は視線を見交わす。 彼が何をしに戻って来たのか、全てが房江に伝わった。 何故なら妻は知っている。薬瓶は夫の宝物だ。瓶の中に収められた品は夫がかつて愛した少女のもの。過去の遺物であったはずなのに、今を生きる品に変化した。 房江は夫の腕に縋った。彼女がこうした行動に出るのは初めてのことだった。 「行かないで」彼女は抑揚なくいう。 慎は肩越しに妻を見下ろした。 切羽詰まった時、よく映画やラジオドラマでは感極まった声で女優は叫ぶ。その大袈裟な演技は役柄の感情を見るもの聞くものに単純に伝えるが、実際の所、恐慌を来し、取り乱すのはどこかに余裕があるからできること。
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